2026年5月11日

Song of Myself

 もう40年近く前のこと。僕は大学に入学すると、音楽系のサークルに入った。ずっと音楽が好きで、それまでも密かに一人でギターを練習していたのだけど、高校時代には周りに自分が好きなロックのことを話せる人はほとんどいなかったし、数少ないロック好きに「一緒に音楽をやろう」なんて言う積極性も、人望も、僕にはなかった。

 大学が決まると、たまたま同じ高校から同じ大学に行く友人がいたので、自然と一緒に学校に通うようになった。そうやって長い時間話すようになるうちに、彼もロック好きだと知った。ただ、彼が好きだったのは、ヘビーメタルと言われていたジャンルで、ヴァン・ヘイレンやメタリカを愛聴し、愛読誌はBURRN!。僕は、古いロックやパンク、ニューウェーブが好きで愛読誌はロッキンオン。同じロックでも微妙にズレがあった。それでもロックが好きというだけで、通じ合えるものはある。

 大学に入ったら、何か新しいことをやりたいと思っていた僕は、彼を誘って一緒に音楽系のサークルに入ることにした。それまで、バンドを組んだ経験がなかったし、臆病ものだった僕は、たぶん一人だったら、そこに入ろうとは思わなかったかもしれない。

 その直後、サークルのイベントで、新入生歓迎ライブが教室で開催されることになり、僕と友人は観に行くことにした。いくつかの先輩のバンドがライブを行うと、後半はセッション大会のようになっていった。そのとき、ギターを持った先輩が、「次はストーンズの『Let’s Spend The Night Together』をやるから、歌えるやつは歌ってくれ」と新入生の方に向かって声をかけた。

 そして、なぜか先輩が僕と目が合うと、「おまえ、この曲知っているか?」といった。ストーンズは好きなバンドのひとつだった僕は「はい。知ってます」と答えた。「じゃあ、おまえ歌え」と有無をいわさない口調で僕をステージにあげた。

 当時は、カラオケボックスはまだなかったし、人前でひとりで歌うなんて経験はまったくなかった。ストーンズの曲だって、口ずさんだことはあるけれど、大きな声で歌ったこともない。当然、上手く歌える自信もない。そもそも人前で話すのも苦手で、できるだけそういうことを避けて生きてきた。だけど、そのときは違った。先輩たちが、自分の好きな音楽を演奏するのを聴き続けていたことで、何かが弾けたような気がした。

 とにかく、イントロのギターが鳴って、リズム隊が加わると、自然とミック・ジャガーばりにステップを踏み、僕は声を張り上げて歌った。もちろん、歌もステップもミック・ジャガーには程遠いひどいものではあったけれど、それなりに懸命に歌う姿に、みんなは盛り上がってくれた。そして、僕はなんとも言えない充実感に満ちて、その時間を心から楽しんだ。

 何かの壁を突破したことで自分が変わったと思える瞬間が、生きていると稀にあると思うのだけど、自分にとって、まさにあのときがそうだった。それまでは、自分をうまく表現できず、間違った場所にいるような気持ちを抱いていた僕が、ついに自分の魂を自由に表現する場や方法を手に入れた。そんな気分になったのだ。あれ以来、僕は仲間と一緒にバンドを組んだ。そして、音楽を作ることに没頭するようになった。僕のものづくりの原点は、そこにある。

 なぜそんなことを思い出したかというと、映画『サンキュー・チャック』を観たから。映画の中でこんなシーンがある。

 弾き語りをするように、路上でドラムを叩いている女の子がいる。いつもは、多少は立ち止まって耳を傾ける人がいるけれど、多くの人は興味を持たずに通り過ぎていく。ただ、この日は違っていた。スーツを着た地味な風貌のビジネスマン、チャックは、ドラムの前に来ると、足を止めてしばらくドラムに耳を傾ける。すると、手に持った革の鞄を路上に置き、華麗なステップで踊り出すのだ。

 踊るうちに、チャックとドラムの周りには聴衆が集まってくる。彼は、その中に軽くステップを踏む女の子を見つけると、一緒に踊ろうと手を差し出す。最初は恥ずかしがっていた女性も、チャックにリードされながら激しく踊り出す。

 さまざまなリズムを刻むドラマーと踊る二人は、グルーヴを加速させていく。普段は隠している、自分の内面を表現したいという魂の叫びのようで、それを自由にさらけだすことができる喜びに満ちている。その喜びを共有する周りの観客から、三人は喝采を浴びる。三人にとって、この瞬間は素晴らしい記憶となり、生きていく意味を与えてくれるものになる。

 僕にとって、もうひとつの自分の内面を自由に表現できると思えるようになった体験は、まだ世に出る前のトラベラーズノートを初めて手に入れたときだった。チェンマイから届いたサンプルの革カバーにリフィルノートをセットしたとき、このノートとともにどこか遠くに旅に行けそうな気がした。そして実際にその後、僕を多くの旅へと導き、何度も感動を与えてくれた。

 トラベラーズノートは、大学時代の僕にとってのロックで、チャックにとってのドラムのビートのような存在となった。ノートを手にすることで、最初の一歩を踏み出す勇気を与え、自分を自由に表現する喜びを教えてくれたのだ。そして、それは生きていく意味になっていく。トラベラーズノートを手にしたすべての人にもそんな体験をしてもらいたい。僕らが20年かけてこれまでやってきたのは、そういうことなのかもしれない。

 映画『サンキュー・チャック』は、ウォルト・ホイットマンの詩「Song of Myself」が、重要なモチーフになっている。この詩は、「私は自分自身を讃え、自分自身を歌う(I celebrate myself, and sing myself)」という力強いフレーズから始まる。トラベラーズノートを手にすることで、自分自身をそこに表現し、そして、自らを肯定し、讃えられるようになる。そうなれたらいいなと心から思う。