2026年3月 2日

Sentimental Value

 トラベラーズファクトリー中目黒では、今日まで帆布バッグのKo'da Styleとニット帽のshort finger のオーダーイベント「Choice」を開催している。毎年恒例のイベントだけど、今回はKo'da Styleのこうださんが還暦を迎えたということで、イタリア語で赤を意味する「Rosso」をテーマにしたコーナーを設けている。

 トラベラーズファクトリーができる前から15年以上お付き合いさせてもらっているこうださんが、還暦になるのも感慨深い。こうださん自身は、あいかわらず若々しくて元気そうだけど、でも打ち上げで話をすると、体の不調などもそれなりにあるようで、まあ還暦というのはそういうものなんだよなと思った。

 僕自身も今年57歳になるから、還暦もそれほど遠くない未来だ。すでにアラ還と言っていい。ちなみに仏教用語で、悟りを得て、尊敬を受けるにふさわしい聖者のことを阿羅漢(アラカン)と呼ぶようだけど、還暦になろうとしていても、僕自身にその兆しはいっさいない。イベントの初日が終わって、こうださんやshort fingerのまみさんと飲んだときにも、「歳をとっても頭の中って成長しないものですね」と、みんなで話していた。

 話は変わって、映画『センチメンタル・バリュー』を観た。幼いときに家族を捨てて家を出た映画監督の父親、そのことがトラウマとなってメンタルの問題を抱えた舞台女優の主人公。さらに父親自身もまた少年の頃に母親の自殺を経験し、心に大きな傷を抱えている。親子三代のトラウマがそれぞれの傷となりながらも、折り合いをつけて生きていく姿が描かれている。そこに辛さだけではない、ささやかな希望みたいなものが感じられる、しみじみと良い映画だった。

 この歳になって思うのは、やっぱり自分は自分でしかないということ。『センチメンタル・バリュー』の登場人物ほどではないにせよ、僕も生きていく過程の中で、傷ついたことは何度もあったし、それがちょっとしたトラウマになっているのも分かる。それは消そうと思っても消えない記憶として心に刻まれている。だけど、歳を重ねるほどに、それが自分という人間を構成する要素でもあるのは間違いないと、分かってくる。

 映画を観ていると、去年亡くなった父親との関係を思い出した。僕は父親にとって決して良い息子になれなかった。別に多大な迷惑をかけたとか、心配をかけすぎたとか、そういうことはない(と思う)。ただ、父親と普通に仲良く話をすることができなかったのだ。たまに父親と会っても、僕から話題を振るようなことはなく、仕事の話も聞かれない限りこちらから話さなかった。というか話すことができなかった。そうなった原因はあるのだけど、亡くなるまで親密な会話ができなかったことを、今は後悔している。さらに、そのことが自分の息子や娘とのコミュニケーションの取り方にも影響を及ぼしてしまっている。

 映画では、お互いに愛していながらも素直に言葉でコミュニケーションを取ることができない父娘が、作品を作ることを通じてお互いを理解しようとする。その姿を見て、自分の個人的な記憶や思いがいろいろ込み上げてきて、とても感動した。

 この映画のタイトルであるセンチメンタル・バリュー(sentimental value)の意味を調べてみると、持ち主にとっての大切な思い出や思い入れが深い個人的な価値を指す言葉だった。市場価値(market value)や実用的価値(practical value)の対義語になる。この映画自体もまた、自分のストーリーと自分の個人的な思い出がリンクすることで、センチメンタル・バリューが生まれ、より深い感動を与えてくれる。そもそも上質な映画とはそういうものなのかもしれない。

 トラベラーズノートは、使い続けることで、センチメンタル・バリューが生まれるものでもある。もちろん実用的価値は大事だけど、それと同時に個人的な思い入れが持てる道具に囲まれることで、日々の暮らしは豊かになる。

 そういえば、今回のイベントで販売しているKo'da Styleのバッグも、short fingerのニット帽もそうだ。作り手と直接話しながら、自分のサイズや好みにカスタマイズしてオーダーする。その後、作り手は、オーダーしてくれた方を頭に思い浮かべながら作る。そうすると、手元に届いた段階で、センチメンタル・バリューを感じるだろうし、使うほどにそのバリューは高まっていく。

 センチメンタル・バリューは、この映画をきっかけに初めて知った言葉ではあるけれど、僕らが作るものは自然とその価値を大事にしてきたし、トラベラーズファクトリーで扱うものの多くもそうであることに気づいた。金銭的価値や機能だけでは計ることができない、個人的な思い出が刻まれ、思い入れが持てるようなもの。僕らは、これからもそういうものを作っていきたいし、紹介していきたい。あらためて、そう思う。

 先週もちらっと書いたけれど、20周年を記念したトラベラーズノートの新しい商品の情報を、今週3月5日に公式サイトにアップします。それが、使う人にとってのセンチメンタル・バリューが生まれるものになれたら嬉しいです。