使いにくいけど使いたいトランク
香港の旅に持っていったトランクは、僕が使い始めてかれこれ20年近くになる。トラベラーズファクトリーのストレージバッグに2、3日の分の着替えを入れて、ポーチにシャンプーや石鹸、歯ブラシに、充電器なんかを入れる。さらにトラベラーズノートにお絵描きセット、文庫本を2冊くらい入れてちょうど良いサイズ。入らないものにパスポートなどは、リュックに入れる。
準備にそれほど時間がかからないし、このトランクで済むくらいの二泊三日くらいの気楽な旅をもっと頻繁にできるといいなと思う。
このトランクを手に入れたきっかけは、約20年前の会社での展示会だった。発売直後のトラベラーズノートを並べることになって、僕は展示会のディスプレイとして使う旅の小道具を探していた。そこで、コレクターとして知られていたひと回り年上の先輩に、「かっこいいヴィンテージのトランクとかあったら、貸してほしいんですが」と聞いてみた。
すると、先輩は蚤の市で手に入れたという小さい布張りのトランクを貸してくれた。カーキ色の布は樹脂でコーティングされ、角は厚手の革で補強されている。留め具の真鍮は経年変化で美しく黒ずみ、革や布のところどころに傷があったけれど、それがなんとも味わい深い。ひと目で気に入った僕は、「ありがとうございます!」と言って、使わせてもらうことにした。
展示会でトラベラーズノートと一緒に並べたところ好評で、他の展示会でも使いたいと言って、しばらく借り続けていた。そんな中で、先輩は退社をしてしまい、新しい仕事のためにタイへ行ってしまった。
すっかりこのトランクを気に入った僕は、個人的にも使わせてもらうようになった。正直に言えば、持って歩くには片手がふさがるし、容量の割には重いし、決して使いやすくはない。だけど、旅先で寅さんみたいな気分を味わえるし、ものとしての佇まいがかっこいい。2、3泊の旅にちょうど良く、しばらく個人的に愛用させてもらっていた。
その後、チェンマイの工房での立ち合いのために、タイに出張することになって、久しぶりに先輩にコンタクトをしてみた。その先輩は、もともとタイの百貨店で働いたこともあって、彼がまだデザインフィルで働いていたときにも何度か一緒に出張でタイに行ったこともあった。
タイ語が話せる彼は、レストランやお店のスタッフと仲良くなってしまうのが得意で、レストランで待ち合わせをしていて会いにいくと、たいてい少し早めに入り、店の女の子と楽しげに話をしていた。そんなタイミングで僕が店に着くと、先輩は、「タイでは顔が利くスタッフをつくっておかないと、オーダーを忘れられたりするんだよね」と言い訳がましく言う。「そんなもんなんですかねえ」と僕は疑いの眼差しを向けながらも、そんな風にふるまえる先輩を羨ましく思ったりもした。
その食事の席で、僕はふと思い出したようにちょっとわざとらしく「あのトランク、借りっぱなしですみません。そろそろお返ししないとですね」と言ってみたら、「ああ、もういいよ。あげるよ」と返事をもらった。彼の人柄からそんな答えを想像しながらも、ちょっとだけあった胸のつかえが取れたような気がした。それからは、堂々と自分のものとして愛用している。
そんなわけで、もともとヴィンテージだったトランクを、さらに20年近く使っていて、その間にハンドルが壊れたり、内装はボロボロになったり、ちょっとしたトラブルがあったけれど、その度に自分で修理して使っている。
寅さんみたいに、家族と喧嘩したときに「それを言っちゃあ、おしまいよ」と言葉を残してぷいっと家を出たり、失恋をしたことが理由なのに「そこが渡世人のつれえところよ」と言って温かな家族のもとを旅立つ。旅に出るきっかけはともかく、このトランクにさっと荷物を詰めて、あんな風に突然ふっと旅に出られたらいいなと思う。
行き先だって寅さんみたいに、十字路の真ん中で舐めた指を空に向かって立てて、風が吹いてきた方へふらっと行っちゃうような旅に憧れる。僕に取って、このトランクは、そんな気分させてくれる旅の道具だ。