言葉はいつも空回りする
先日、日本で日本人の両親のもとに生まれ、その後、幼少期はアメリカと日本を行き来しながら暮らし、中学・高校時代はアメリカ、大学時代は日本で過ごし、今はアメリカで仕事をしている方と話をする機会があった。「そうすると、日本語も英語もネイティブとして話せるんですか」と僕が尋ねると、「いやあ、どっちも中途半端なのかもしれないですね」と彼は答えた。両親が日本人であることもあって、話をするのは日本語が一番ストレスがないけれど、文章を読むのは英語の方が楽だと彼は付け加えた。
そんな彼の話を聞いて、日本語にどっぷり浸かって生きてきて、拙い英語力しかない僕は、それってどんな感じなんだろうと想像した。それぞれの言語には、クセみたいなものがあって、それがその人の表現や思考にちょっとした影響を与えているように思っている。
トラベラーズタイムズの英語版を作成する際には、もともと僕が書いた文章を海外担当に英訳してもらい、その後アメリカのスタッフにネイティブチェックをしてもらっている。
その際に、「この文章の主語は、『I』ですか、『We』ですか、それとも『You』ですか?」と聞かれたことがある。で、あらためてその文章を読んでみると、果たしてどっちなんだろうと、自分でも分からなくなった。
「もちろん『I』でもあるけれど、ここでは 『We』の方がいいかな。だけど、さりげなく、それは『You』かもしれない、というニュアンスを含んでいるんだよね」と実に曖昧なぼんやりした答えが頭に浮かぶ。主語を省略することで解釈に幅を持たせて、曖昧にすることができるのが、日本語の良いところでもあり、悪いところでもあるのかもしれない。それは同時に日本人のひとつの気質みたいなものを作っているようにも思える。
たとえば、太宰治の「人間失格」の冒頭の一節「恥の多い生涯を送って来ました」は、「私は」という主語が省略されている。そのことで、告白の生々しさが強調されて、他人とは思えない共感を与える。同時にこの言葉だけを切り取ると、主体を少し曖昧にさせる効果もあるように思える。
また、英語の「I」はひとつしかないのに、日本語だと私、僕、俺、我輩、小生、小職、当方、自分、おいら、おら、わし、うち、などたくさんの言葉がある。しかもそれぞれの言葉に年齢とか性格、性別などの特有のイメージがある。さらに文章では、漢字、ひらがな、カタカナで表現することでニュアンスも変わる。とにかく、しっくりした主語を見つけるのが難しい。
このブログでは、主語として主に「僕」を使っているけれど、正直に言うと、どこか落ち着かない。「私」だと固いような気がするし、「ぼく」や「ボク」だと軽すぎる。だからといって「小生」も「オレ」は馴染まない。そのこともあって主語はなるべく省略するようにしている。英語の「I」のように、記号のような一人称の日本語があれば楽なのに、と思うこともある。
二人称の場合はもっと難しい。日常会話でも、あなた、君、おまえ、などの「You」に相当する言葉を使うことはほとんどない。皆さんもそうだと思うけれど、たいていは「You」の代わりにその人の名前を言う。複数の「You」の場合には、皆様とか皆さんといった言葉を使うことが多いけれど、もっとカジュアルに全員ではなく、特定の複数の相手に向けたときに、しっくりくる「You」に当たる日本語は、まだ見つかっていない。
日本とアメリカを行き来しながら暮らしていた方の「日本語も英語もどっちも中途半端なのかもしれないですね」に、「そんなものなのかな」と思っていたけれど、あらためて日本語について考えてみると、僕自身も日本語を使いこなせているとは言えないことに気づく。
「言葉はいつも空回りして 道の上をすべってく
方向音痴クルマにひかれ 今日も届かない」
ブルーハーツの「トーチソング」はこんな歌詞で始まる。そもそも言葉を使って、思いを伝えるのは簡単なことではない。英語がそれほどうまくない僕は、英語で話そうとすると、そのことをとても分かりやすく実感できるけれど、日本語だって空回りして届かないことがよくある。
SNSでは、言葉の扱いはどんどん雑になり、嘘や嘲笑、罵り合いの道具になってしまっていることも多い。政治家たちはあえて空回りさせることを意図したかのような、上滑りの言葉を話す。そして、本当の想いこそ言葉では伝わりづらい。
「嘘でふくれた風船はもう 空に高く昇ってく
ポストが歌うトーチソングを 夜が聴きにくる」
「トーチソング」の歌詞はこう続く。いくら否定されても嘘やデマはどんどん広まる。トーチソングとは叶わぬ恋を歌う悲恋歌を意味するので、その後の歌詞は、報われない恋への想いが綴られた手紙がポストの中にあって、夜中になると静かにその言葉が聴こえてくる、という情景をイメージしているのだろうか。ややこしい言い方になるけれど、想いが言葉で伝わらない切ない気持ちがとてもよく伝わってくる美しい言葉だ。
このブログもまた、旅先や日々の暮らしの中で出会った感動や興奮、頭に浮かんだちょっとしたひらめき、そして心の中をじわじわと侵食するもやもやした想いを、なんとか言葉に残そうとして綴っている。だけど、僕の言葉では、きっとその想いの半分も伝えきれていないはずだ。それでも言葉で伝えることを諦める気持ちにはなれない。言葉に裏切られ、傷つけられたこともある。自分が誰かにそうしてしまったことだって少なくないはずだ。だけど同時に、美しい言葉に触れることで、何度も心を震わせられ、生きる希望を与えられてきたし、何より僕は言葉が好きだ。
だからこそ、ここで綴る言葉がたったひとりでもかまわないので誰かの心に届き、ささやかでもその人の暮らしに前向きな変化をもたらすことができたら嬉しい。