2026年2月 9日

バナナフィッシュにうってつけの日

 2月は、毎年どこか落ち着かない。まず、寒いのが好きではないから、外に出る気も失せて、気分は塞ぎがちになる。にもかかわらずたまに暖かい日があると春の気配を感じてしまい、季節の変わり目の憂鬱な気分に襲われる。さらにあまり良い思い出がなかったバレンタインデーなんていうイベントがあるし、花粉症が始まる季節でもある。その上、なぜか他の月よりも2日か3日少ないから、油断していると、やろうとしていた予定も進まないまま終わってしまう。なぜ2月だけ短いのか理由は知らないけれど、たぶん、暦を決めた偉い人も2月が嫌いだからそうしたのだと僕は思っている。そういえば、閏年なんていうのもあって、たまに1日多かったりするから、さらにややこしい。

 そんなわけで、2月になってから心穏やかでない日々を過ごしているのだけど、そのもうひとつの原因は選挙。その始まりからして納得いかないし、党首討論や選挙活動に関する報道に触れると気分は暗くなるばかりだ。選挙のときにいつも気付かされるのだけど、どうも自分は少数派らしい。

 サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』を久しぶりに再読している。あることがきっかけで、この短編集の冒頭に掲載されている「バナナフィッシュにうってつけの日」を読んでみようと思ったからだ。

「バナナフィッシュにうってつけの日」は、その後もサリンジャーによって描かれるグラース家の連作の最初の小説でもある。グラース家の長男シーモアが登場し、最後に唐突に自殺して終わる。物語は、ホテルの部屋でシーモアの妻が母親に電話をするところから始まる。その会話で、シーモアは兵役から戻って以来、精神を病んでいることが分かる。

 その後、舞台はビーチに変わり、砂浜でシーモアが寝そべっていると、小さな女の子がやってきて話をする。シーモアは、彼の想像の魚、バナナフィッシュをつかまえに行こうと彼女に話す。

「あのね、バナナがどっさり入ってる穴の中に泳いで入って行くんだ。入るときにはごく普通の形をした魚なんだよ。ところが、いったん穴の中に入ると、豚みたいに行儀が悪くなる。ぼくの知ってるバナナフィッシュにはね、バナナ穴の中に入って、バナナを七十八本も平らげた奴がいる」

 穴に入ると、バナナフィッシュはバナナを食べ過ぎて太ってしまい、穴から出られなくなる。そして、バナナ熱にかかって死んでしまう。シーモアは、バナナフィッシュについて、女の子にそう説明する。

 サリンジャーが何のメタファーとして、70年以上前にバナナフィッシュを描いたのかを完全に理解することはできないけれど、今の世界のことのようにも思える。核兵器を肯定し、軍備を拡大しようという声、自国ファーストを高らかに訴える排外主義、置き去りにされる環境問題。大量に垂れ流されるフェイクニュースに生成AI動画。まるで行儀が悪く食い荒らしていく穴の中のバナナフィッシュみたいだ。そのうち穴から抜け出せなくなって、バナナ熱にかかってしまわないだろうか。だったら、バナナを食べるのをやめて、いっそ旅に出た方がいい。

 投票日、東京では予報通り雪が降った。投票所の小学校に行くと、雪が少しだけ積もった校庭の隅で、小さな子どもが歓声を上げながら小さな雪だるまを作っていた。そうだよな。雪がめったに降らない東京では、子どもの頃は、雪が降るのが嬉しくでしょうがなかったんだよな。

 大人になると、雪が降るとすぐに交通への影響を心配してしまうし、そのことで困ってしまう人たちのことを想像してしまう。いつの間にか、素直に雪が嬉しいと思えなくなったし、それを言うことも憚れるようになってしまった。でも、今でも、雪が空から落ちてくると、ちょっとだけ心が弾むような気持ちになる。

 仙台で営業をやっていた頃、担当していた秋田まで車で行くには、岩手の北上で一度高層道路を降りて、横手までの峠を越えなければいけなかった。特に冬に峠を越えるのは、運が悪いと吹雪で視界がほとんどなくなることもあってかなり憂鬱だった。

 冬のある日、いつものように秋田に向かって車を走らせていた。しんしんと雪が降るなかでおそるおそる車を運転し、なんとか峠を越えた。すると、突然、天気が晴れ渡り、空には雲がいっさいなく青空が広がっていた。

 真っ白な雪で覆われた道や山と、晴れ渡った青空とのコントラスト。雪の上に太陽の光が反射して、キラキラ輝いている。僕は思わず車を止めて外に出た。ひんやりとした空気に、まぶしい太陽の光。そこには自分以外誰もいないし、音もいっさい聴こえてこない。僕はただ、大自然が作り出した風景の美しさの中に身を浸した。当時はスマホなんてないから写真もない。今では、その風景は僕の記憶の中にしかないけれど、その美しさに感動したことははっきりと覚えている。

 僕らが住むこの世界には、心を悩ませ、不安にさせるようなことが多い。絶望的な気分になることだってある。だけど同時に心を震わせ、感動させてくれることもあるのを忘れてはならない。絶望の中でこそ、光を見つけよう。ささやかな光も見逃さずに捉えて、ノートに書き留めよう。2月が過ぎれば、暖かい季節がすぐにやってくる。大丈夫。きっとなんとかなるよ。