2026年8月 3日

物語はアメリカからはじまる

「再来年はトラベラーズノートが発売して20周年でしょ。だから20周年記念で本を作ろうよ。トラベラーズノートのこれまでをまとめた、飯島の小説でね」石井さんは、それまでの話題を変えて、ずっと考えたことのように僕に言った。

 今から二年前の2024年11月。この日は、アメリカでのトラベラーズノートのイベント初日だった。イベントが終わり、他のみんなと夕食を食べた後に、石井さんと僕はホテルの部屋でビールを飲みながら話をしていた。久しぶりのアメリカは円安の影響もあって物価が高く、現地スタッフが紹介してくれたホテルはひとり一部屋だと値段が高すぎた。そのため、僕と石井さんは二人で同じ部屋に泊まっていた。

 コロナ禍が明けて初めてアメリカで開催したイベントの初日は、まさに大盛況で忙しく終わった。僕と石井さんは、ビールで祝杯をあげて、しみじみと二人で感動を分かち合っていた。そういえばトラベラーズノートを立ち上げたばかりの頃は、仕事ではないのに仕事の延長のような旅をよくしていて、そんなときには宿代を安く済ませるために二人で安宿の同じ部屋に泊まった。あの頃も、部屋でビールを飲みながら夢を語り合っていた。

「20周年が来るまで、まだ一年以上あるでしょ。今から書けば間に合うよ。オレが読みたいんだよ」石井さんはさらに畳み掛けた。

 石井さんは、僕の5歳年上の先輩でトラベラーズノートの立ち上げから20年間ずっと一緒に仕事をしてきた仲間の一人だ。僕にとっては、ものづくりの師匠のような存在で、紙のことや印刷、紙加工などのイロハを石井さんから教えてもらった。さらに生産管理のプロとしてトラベラーズノートのものづくりを担ってきた存在でもある。フットワークが軽く飄々とした性格で、どちらかと言えば理屈っぽくて腰が重い僕を、少し無責任にけしかけて、どこかへ連れ出そうとする。何よりびっくりするほどピュアで素直な人柄で、同時に僕を認めてくれる存在でもある。

「小説なんて書けるのかなあ」そう呟く僕に、石井さんは「20周年の他の企画は、きっと橋本が考えてくれるだろうから、飯島は小説をがんばってね」と、半分冗談で半分本気のように言った。

「そんなこと言ったら、橋本に怒られますよ」僕は笑いながら答えた。石井さんと同様、トラベラーズノートの立ち上げから一緒にやってきたデザイナーの橋本は、本来なら一緒にこのイベントに参加する立場ではあるのだけれど、この年の6月に初めての出産があり、育休をとっていた。

 日本に帰ると、春に発売する新商品の準備があって、忙しく日々が過ぎていった。その間も、ぼんやりと石井さんから言われた本のことを考えてみたけれど、なかなか手をつけられなかった。

 石井さんは小説なんて言うけど、僕に小説が書けるのだろうか。そもそも小説という形がいいのか。よくある事実をベースにした小説みたいに、登場人物を偽名に変えて書くのは恥ずかしいし、登録商標でもある「トラベラーズノート」を「トラベルノート」みたいに微妙に変えるのも抵抗がある。だけど、ビジネス書みたいになるのもトラベラーズらしくない。そんなことを考えているうちに、何も書けないまま数ヶ月が過ぎてしまった。

 あのアメリカの夜から三ヶ月ほど過ぎた三連休。僕はカプセルホテルを出ると映画を観に行った。唐突にカプセルホテル、なんてことを書いてしまったけれど、僕は最近、自転車で行く近場の旅をささやかな楽しみにしている。家から自転車で行けるくらいの距離にある安い宿に泊まって、その近くの居酒屋や中華屋で夕食を食べたり、銭湯に入ったりするだけの小さなひとり旅だ。

 ホテルに泊まった翌日は、映画を観るのがいつもの楽しみ。この日に観たのは、『リアル・ペイン〜心の旅〜』というアメリカの映画だった。この映画にトラベラーズノートが出てくるという話を聞いて、観ることにしたのだ。

 映画は、ユダヤ系アメリカ人の従兄弟同士が、自分たちのルーツであるポーランドへ旅をするロードムービーだ。映画自体も良かったのだけれど、映画に登場したトラベラーズノートを見て、感慨深い気持ちになった。

 トラベラーズノートを持つ登場人物は脇役で、アメリカからやって来た従兄弟たちを案内するツアーガイドだ。彼はポーランドのガイドなのにイギリス人で、ツアーの行程が書かれているのか、いつもトラベラーズノートを手に持ってガイドの仕事をしていた。最初に画面に登場したときは、つい手元のノートに見入ってしまい、字幕を追うのを忘れてしまった。

 彼は、トラベラーズノートを出身国であるイギリスで手に入れたのか、それとも仕事をしているポーランドで手に入れたのか、ストーリーの流れとは関係なく、ついそんなことを考えてしまった。トラベラーズノートが発売されて、もうすぐ二十年。イギリスでもポーランドでも、さらにこの映画の制作国のアメリカでもトラベラーズノートは販売されている。

 良作ではあるけど地味な作品とも言える、ヨーロッパを舞台にしたアメリカ映画に登場し、トラベラーズノートは画面に馴染むように使われていた。それを見て、僕は「ここまで来たんだな」と、しみじみ感動してしまった。映画を観終わり、カフェでコーヒーを飲んでいると、ふと石井さんに言われたトラベラーズノートの話を書き始めてみようと思った。小説なのか随筆なのか、それともノンフィクション? そういうことはどうでもいい。これまでのことを正直に綴っていけばいい。そう思ったのだ。それが、2025年3月のこと。

 それからコツコツと書き進め、途中で頓挫しそうになりながらも、なんとか完成までこぎつけたものを今週発表します。詳しいことは、今週、トラベラーズファクトリーの公式サイトに掲載する情報を見ていただければと思います。楽しみにしていただけたら、うれしいです。