つげ義春に教えてもらったこと
毎年、この時期の恒例となっている新入社員研修の講師として、1時間ほど話をした。僕が所属している部署は、トラベラーズ事業部といって、トラベラーズ関連の商品企画・生産管理からはじまり、トラベラーズファクトリーの運営や、コラボレーション先との営業活動、イベントや販促サポートまで多岐にわたっている。その仕事の内容や売上の説明からはじまって、トラベラーズノートの生まれたきっかけや、これまでの歩みを話した。
目を輝かせながら話を聞いてくれている新入社員を見ていると、あの頃の自分を思い出してしまう。僕が就職活動をした1990年はバブル期で、さしたる苦労もせずにこの会社に就職を決めることができた。ただ、正直に言うと、そこに明確な目的があったわけではなく、なんとなく雰囲気が良くて、ここならなんとかなりそうだな、と思ったことが、この会社に決めた理由だった。まあ、要は社会を舐めていたのだ。最近は、新卒の面接官をすることがあるのだけど、あの頃の僕が面接に来たら、確実に落としているだろうな。
そんな甘い考えだから、入社後、東北の営業所に配属されると、当然のように失敗を重ね、上司や得意先から怒られる。営業成績は振るわず、入社して最初の1、2年は憂鬱な気持ちで仕事を続けていた。
その頃、つげ義春氏の漫画をよく読んでいた。とくにひなびた温泉地を舞台にした旅ものが好きだった。東北の温泉がよく出てきたこともあって、出張時に仕事が一段落すると、少し足を伸ばして温泉に立ち寄り、ひと風呂浴びるようになった。そんなささやかな楽しみを見つけることで、なんとか仕事を続けていたようなところがあった。
酸ヶ湯温泉、乳頭温泉、後生掛温泉、蒸ノ湯温泉など、山の中にある最果てのような温泉に行き、しみじみと湯船に浸かり、自分もこの世界から取り残されて忘れ去られていく存在になったような気分になるのが、なぜか心地良かった。
また、つげ義春氏の漫画で商人宿というものがあるのを知って、秋田や青森では、それまで泊まっていたビジネスホテルではなく、その商人宿に泊まるようになった。商人宿は、ビジネスホテルという名前が出てくる前からあった、行商や工事関係者などの客向けの旅館だ。風呂とトイレは共同で、部屋は、たいてい飾り気のない和室の畳部屋で、隅に薄いせんべい布団が二つ折りで置かれていたりする。
部屋に入ると、まずは畳まれた布団を枕にして、ゴロンと横になる。シミのついた天井を眺めながら、ふーっと一息つく。そしておもむろに起き上がると、テーブルに置かれた急須にお湯を注いでお茶をいれて、タバコの火をつける。テレビを見ようとしたら有料で100円玉が必要だったりすると、テレビがない静かな夜もたまにはいいかと思う。そうすると、部屋の外から「そろそろお風呂いいですよ」とおかみさんの声がする。そんな宿だ。
「何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている」
つげ義春氏の「近所の景色」に引用されている梶井基次郎氏の「檸檬」の一節だ。その言葉の通り彼の作品から、新しくて豪華ではない、古くてひなびたものの良さを教えてもらった。
営業で東北に配属されて、あまり仕事をうまくやっていたと言えないけれど、むしろそんな気分が氏の漫画とぴったりあっていた。厭世的で蒸発に憧れる主人公に自分を投影しながら、東北を旅するように仕事をすることで、徐々に仕事の楽しみを見つけていったような気がする。
1ヶ月ほど前に、つげ義春氏の訃報を知った。僕が熱心に彼の作品を読むようになった頃には、すでに漫画を描くのをやめていた。だから、その新作を期待していたわけではないけれど、自分に大きな影響を与えた人がいなくなることに、ぽっかり穴があいたような喪失感を抱いてしまう。
トラベラーズノートを発売して間もない頃、僕はつげ義春氏に、『つげ義春の温泉』に出てくるような、ひなびた温泉地を背景にしたトラベラーズノートの絵を描いてもらうのが夢だった。すでに絶筆していたし、インタビューでも、そういった依頼はすべて断っていると公言していたから、無理なのは分かっていた。それでも、ぼんやりと頭の中にあった夢が完全に絶たれてしまった。
つげ義春氏の作品には、絶望や厭世、虚無感に包まれているのだけど、同時にどこか楽天的なユーモアもあるのが特徴のひとつでもある。生への執着を持たない、死の匂い漂う作品を描き続けながらも、88歳まで生きて天寿を全うしたとも言えるのは、そんな楽観主義があったからなのかもしれない。
「行き先は九州。住みつくつもりで九州を選んだのは、そこに私の結婚相手の女性がいたからだ。といっても私はこの女性と一面識もなかった」
氏のエッセイ「蒸発旅日記」は、こんな文章からはじまる。蒸発するつもりで家を出て、ファンレターきっかけで数回文通しただけの女性に会いにいく。ただ、そう決断して旅を始めたものの「見た目が実はタイプではなければどうしよう」などと考えて悶々と悩み始める。まあ、要は世の中を舐めているようなところがあるのだ。そんなところに僕はとても共感してしまう。
僕も会社に入ってもう34年になる。やる気を出してポジティブにがんばろうとする自分と、すべて投げ出してどこか遠くに行きたくなる自分が、心の中で常に行き来している。でも大事なのは、なんとかなるだろうという楽観的な気持ちを常に心のどこかに置いておくことなのかもしれない。トラベラーズノートの20年もそうだった気がする。
話は変わりますが、今週いよいよトラベラーズノート カードサイズ 20周年セットが発売になります。トラベラーズファクトリーでは、抽選予約という形になりましたが、全国各地のトラベラーズノート扱い店舗でも販売される予定です。よろしくお願いします。