2024年4月 8日

桜咲く

 それまで寒かったのに、突然Tシャツで過ごせる初夏のような暑い日が2、3日続くと、やっと桜の開花宣言が聞こえてきた。いよいよ本格的に春になったみたいだ。なんて思っていたら、今度は急に寒くなって、もう着ないだろうとしまっていたダウンのベストと冬用のジャケットを取り出す。そんな例年以上に激しい春の寒暖差に翻弄されていたら、もう4月になっていた。

 そんなわけで、ほんの数名だけど、うちの会社にも新入社員がやってきた。こっちはジーパンにトレーナーみたいな格好なのに、みんな真新しいスーツを着てびしっと決めている。彼らの少し緊張した面持ちに、自分が新入社員だった頃の気分が蘇ってきた。

 もう30年以上経っているのに、あの頃の気持ちを鮮明に思い出せる。勉強はほとんどしないで、バックパッカー旅やバンド活動に明け暮れていた学生時代が終わり、着慣れないスーツに身を包み、自転車で会社に向かう。ちなみに、会社は家から自転車で10分くらいで通えるほど近かった(それもこの会社を選んだ理由のひとつだった)。

「これから月曜から金曜は毎日、こうやって朝9時までに会社に行かなかきゃならないんだな」。そんなしょうもないことを考えながら、憂鬱な気分で自転車を漕ぐ。通勤が自転車だったからよかったけど、これが満員電車だったら、憂鬱度はさらにアップしていたはずだ(当時は錦糸町にあったのが、それから10年ほどして恵比寿に引越した。そこでやっと満員電車の洗礼を浴びることになった)。正直に言えば、新しい生活がはじまる期待よりも、上手くやっていけるのかという不安の方が大きかった。

 もう長い旅はできないし、バンドで演奏していたときに感じていたような興奮も味わえない。「このまま普通のサラリーマンになって、つまらない大人になってしまうのかな」と頭の中でつぶやいた。まあ要はモラトリアム気分が抜けない、甘えた新入社員だったわけです。だけど、会社に着くとそんな気分を悟られないよう、明るく元気に「おはようございます!」と声をだした。

 その後、入社式がはじまった。入社式といっても、当時の新入社員は6、7名だけだったから、それほど大袈裟なものではなかった。名前があいうえお順で一番最初になる僕は、新入社員代表として挨拶をした。そのとき自分が何を話したかは覚えていないけど、挨拶が終わって席に着くと、当時の社長が「きみはうちに入って何をしたいんだ?」と聞かれたことは覚えている。

 入社式でいきなり社長から名指しで質問を受け、それなりに緊張していた僕は、「いつか商品企画をやって、ウォークマンのような今までなかったもので、代名詞になるような商品をつくってみたいです」と、とっさの思いつきで答えた。

 ウォークマンが発売されたのは、僕が小学生の頃。そして、僕が手にしたのは中学生になってからだった。はじめてヘッドフォンをつけて音楽を聴きながら街を歩いたときの感動は今でも覚えている。まるで映画の登場人物になったような気分になって、いつも歩いている近所の風景が一変したような気がした。それに、これがあればいつでもどこでも音楽を聴くことができることにも興奮した。

 僕は、ちょっと高価で生活必需品ではないモノを買うかどうか悩んだときに、それがが自分の生活に変化をもたらせてくれるのか?と自分の心に問いかける。そして、それがイメージできたら、なるべく買うようにしている。新しい音楽の聴き方を教えてくれて、音楽を身近で親密なものにしてくれたウォークマンは、まさに僕の生活に大きな変化を与えてくれた。今もそれなしの生活は考えられないくらい音楽が大切な存在になったのも、このときのウォークマンがきっかけだったかもしれない。

 正直なことを言うと、買ったのはソニーのウォークマンではなく、少し安いアイワのカセットボーイだった。だけど、当時ウォークマンはソニーの登録商標で固有名詞なのに、その手のカセットプレイヤーを総称する普通名詞のように使われていた。カセットボーイなんてだれも言わずにアイワのウォークマンと言っていた。

 あの入社式からはもう30年以上の月日が経った。今も相変わらずサラリーマンで、今の自分が「つまらない大人」かどうかは、きっぱり否定できる自信はない。でも、仕事で1週間以上の旅に出ることはあるし、バンド活動のときのような興奮を味わうことだってけっこうある。もちろん、それなりに面倒なこともあるけど、日常を楽しくできるようなモノを仲間と一緒に作って、誰かに喜んでもらえて、それが世界中に広がっていることを実感できている。サラリーマンの仕事にだって夢があるし、楽しいこともあるよ、とあの頃の自分に言ってあげたい。

 毎年、4月に新入社員に向けた研修があって、僕も1時間ほどその講師をする。ここで書いたようなことを新入社員に実感を伴って感じてもらいたいと思って、話をするのだけど、いつもどこか空回りして、消化不良気味に終わってしまう。今年はもうちょっとうまく話せたらいいんだけどな。

 週末、ようやく満開を迎えた目黒川の桜の写真をトラベラーズファクトリー中目黒のスタッフが送ってくれた。毎年そうなんだけど、この時期の中目黒は駅から降りるのも大変なくらい人が溢れていて、ファクトリーにもたくさんの方が足を運んでくれています。そのため、お待たせしまったり、混雑でご迷惑をおかけしてしまうこともあるかもしれませんが、スタッフ一同バタバタしながらがんばっておりますので、ご了承ください。