2024年4月15日

味だよ、味

 サウナに行ったとき、ふと思い立って久しぶりにマッサージを受けてみた。マッサージ師のおばさんは、うつ伏せの僕の背中を触るなり「背中が石みたいに硬いねえ」と言った。そういえば最近、高いところのものを取ろうと思いっきり手を伸ばしたり、逆に机の下に転がったペンを拾おうとして体をひねったりすると、背中にピーンとつったような痛みが走ることがある。

「けっこうひどい感じですか?」と聞いてみると、「いやあ、こんなに硬いのはそうそうないね。定期的にマッサージを受けてボディケアをした方がいいよ」と彼女は言った。マッサージは嫌いではないので、タイや中国などに出張に行ったときはよく受ける。ただ僕は肩が凝るという感覚はよく分からず、普段は必要だと感じることはなかった。でも、そろそろたまにはマッサージを受けて、硬くなった体をほぐしてもらった方がいい年頃なのかもしれない。

 最近、老眼もどんどんひどくなる。ちょっと前までは絵を描くときと、小さな文字を校正するときにだけ老眼鏡をかけていたのに、今では文庫本もそれなしでは読むことはできなくなった。2月に自転車で転んだときに打った肩は、今も手を上げるとちょっとした痛みを感じる。いつまで経っても治らないのは、これが世間で言うところの50肩というやつかもしれない。

 僕も来月で55歳。還暦もそう遠くない未来になり、みうらじゅんが言う「老いるショック」を感じることが多くなってきた。みうらじゅんは、老いを感じる瞬間をクイズ番組『タイムショック』ばりに、「老いるショォーック」と高らかに宣言することで老いをポジティブに変換しようと言った。そういえば、僕も老いるネタを話すことが多い。

 最近の僕はもの忘れがひどくなり、その人を目の前にしているのに名前が出てこないことがよくある。名前を言おうとした瞬間に言葉が詰まってしまうと、今では相手もそれを察して「ああ、またか」と笑って許してくれて、むしろ場が和んだりする。痛風持ち同士なんて、その痛みについて笑いながらまるで自慢話みたいに語るから、痛風を知らない人たちは未熟な若輩者のようにすら感じさせる。ふと、この老いのネガティブなことをポジティブに変換して楽しんでしまうのは、トラベラーズノート的でもあることに気づいた。

 ここでも何度か書いたけど、僕がトラベラーズノートに感動したことのひとつに、このノートに書くことで、自分の下手な字がむしろ味があるように思えたということがある。味があると思ったのは、あくまでも僕の主観なんだけど、でも自分で味があると思えたら、書くことが楽しくなった。革カバーの味もそうで、革に傷がつくほどに味だと感じると、より自由に大胆に使うことができた。

 コーヒーをこぼしてついたノートのシミも味。書き損じてやぶけたページも味。押したスタンプが天地逆になってしまうのも味。トラベラーズノートに写真を貼るならちょっとピンボケの方が味わい深いし、絵だって少しくらいパースが狂っているくらいの方が味がある。「味」は、一見ネガティブだと思えることを愛おしいものに変えてしまうパワーワードだ。

 もともとその傾向がなかったわけではないけれど、トラベラーズノートを使うようになってから、使い倒された古い道具や、一見するとみすぼらしい古くて朽ち果てそうな建物や路地裏の風景がさらに好きになった。

 新品のトラベラーズノートは、まだ何も経験していない赤ちゃんみたいな存在だ。使えば使うほどに、使い手の旅や生活がノートに刻まれて味になり、その人にとっての宝物のような存在になる。トラベラーズノートは、自由で懐が深く寛大だから、使い手の得意なことも不得意なことも、楽しいことも辛いことも、失敗も成功もすべて受け入れてくれる。そして、長く使うほどに、自分の人柄が滲み込んだ分身のような存在になる。長く使って、ついた傷も汚れも、手の油も汗も涙もぜんぶ味となって、より愛おしく美しく変化していく。

 人も同じだと思う。顔に刻まれたシミやシワはまさに味だし、硬い背中も50肩も老眼もぜんぶ味だと思えば、楽しく向き合える。歳をとるほどに襲ってくる老化現象も、人としての味が深まると思えば楽しい。

 例えば仕事での失敗も失恋も、その他多くの辛くて悲しい出来事もそのときは辛いかもしれない。でも「ああ、これで自分の人生に味が加わった」と思えば、ポジティブに変換できる。実際、挫折や辛いことを経験してきた人は、そういうことをいっさい経験していない人よりも、人としての深みがあるように思えるし、そう考えた方が楽に生きていける。

 まあ、生きていれば、辛いこともいろいろあるけれど「味だよ、味」と呟いて、うまく付き合っていけたらいいなと思う。もちろん、そう簡単にはいかないことだっていっぱいあるだろうけど、ボロボロのトラベラーズノートはたぶん最高にかっこいいし、ゴムが切れたらリペアキットもある。旅だって、波乱万丈の方が、後から振り返ったら楽しい思い出になる。だから、辛いことがあったら「味だよ、味」と呟こう。