2024年4月 1日

『ジジイの文房具』

 大学生の頃、椎名誠氏の本にハマったことがあった。『哀愁の町に霧が降るのだ』や『新橋烏森口青春篇』などの自伝的な小説、『あやしい探検隊シリーズ』の豪快なキャンプ紀行、『岳物語』での少年の成長記などをワクワクしながら読んだのを覚えている。

 当時の椎名氏の本は、エッセイだけでなく小説も氏の実体験や実際の交友関係をもとに描かれているのが特徴だった。そのため、自伝小説で狭い安アパートで共同生活をしながら何者かになろうと奮闘していた若者たちの話と、同じ人物が大人になってキャンプや旅を楽しむ話を同時に読むことができた。そんな大人たちが真剣にバカをやって楽しむ姿は、それ以前のことを知ってる分より楽しめたし、まだ若かった自分に憧れの大人像みたいなものを提示してくれた。

 沢野ひとし氏は、その登場人物として知ったのが最初だった。高校時代の同級生でもある沢野氏は、椎名氏の本に準レギュラーのような頻度で登場していて、武闘派でピュアな椎名氏に対し、都会的なセンスのある洒落者かつ大胆な性格の人物として描かれていた。沢野氏はイラストレーターでもあり、しばしば椎名氏の本の挿絵を描いていて、ワニ眼画伯と呼ばれている。そのゆるいイラストがジワジワと味わい深くていい。本も何冊か出版しているのを知って読んでみることにした。

 ずいぶん昔のことだからはっきり覚えていないけれど、たぶん最初に読んだ沢野氏の本は、『トコロテンの夏』というエッセイ集だったと思う。少年時代の思い出から、登山にスキー、家具作りに音楽などの多彩な趣味の世界、それに赤裸々に綴られた恋愛。叙情的でロマンチックで忌憚のない沢野ワールドとしか言いようのない世界に魅せられ、その後も書店で見つけると手にして読むようになった。今になって思えば、同じように椎名氏の本をきっかけにして知った野田知佑氏とともに、自分の価値観に影響を受けた作家のひとりと言えるような存在になった。

 そのなかでのお気に入りは『東京ラブシック・ブルース』という小説。60年代のまだビートルズ以前、カントリーミュージシャンに憧れ高校を中退し、バンドに加わり米軍キャンプやライブハウスで演奏、そして挫折を経験しながら成長していく姿を描いた青春小説だ。どこまでが実体験に基づいているのかはわからないけれど、当時のバンドマンの生活がとてもリアルに描かれ、感動するとともに沢野氏の懐の深さを知った。

 そんなわけで、沢野ひとし氏の『ジジイの文房具』の出版を記念して、コラボレーションリフィルの製作に、トラベラーズファクトリーで「沢野ひとし展」を開催することになったのは、個人的にも感慨深いできごとになった。

 もともとのきっかけは、『ジジイの文房具』の編集者の林さん(同書のあとがきに登場している)が、大の文房具好きで、トラベラーズファクトリーステーションによく通ってくれていたことだった。

 林さんが自らも愛用しているジャバラリフィルを沢野さんに送ると、沢野さんも気に入ってくれて、そこに絵を描いてSNSにアップにしてくれているのを教えてくれた。さらに『ジジイの文房具』の出版にあわせて、「何かしましょう」という話になって、今回の企画が決まった。なにしろ僕にとって、沢野さんは憧れの人のひとりだったし、これまでも何度かあったトラベラーズノートが繋げてくれたご褒美のような出会いに心が躍った。

 イベントの打ち合わせで、トラベラーズファクトリーで『ジジイの文房具』を販売することが決まり、「本に沢野さんのサインを入れてもらえたりしたら嬉しいんですが……」と言うと、「頼んでみますね。大丈夫だと思いますよ」と林さんは答えてくれた。その後、届いた本を見てみると、ぜんぶに手描きのイラストを添えてサインが入れてあった。イラストも顔つきのペンだったり、顔つきのコーヒーカップだったりで、ついすべての本のサインを思わずチェックして、スタッフとニヤニヤしてしまった。

 さて、『ジジイの文房具』ですが、万年筆、鉛筆、消しゴム、地球儀などの文房具が、沢野さんらしい心がじんわり温かくなったり、切なくなるようなエピソードとともに語られているエッセイ集です。

 それぞれの文房具との出会いのきっかけやそこにまつわる思い出を大切にし、深い探究心でブランドの歴史や成り立ちまで深掘りしていく。道具に宿るたくさんのドラマを想像しながら使うことで、また新たなドラマが生まれる。この本を読んだ後に、あらためて自分の周りにある文房具を見てみると、その成り立ちを調べたてみたくなったり、その道具と過ごしてきた思い出を掘り返してみたくなるのです。そして、最後には自分の手元にある文房具たちが今まで以上に愛おしくなってくるのです。

 さらに一度読み終わったら、今度はほぼすべてのページに掲載しているイラストをワンカットずつじっくりゆっくり眺めるのも楽しい。顔や手足が描かれた文房具たちを見ていると、道具にも意思や人格が宿っているのが想像できるし、シンプルでゆるいタッチのイラストなのに思わずハッとするような美しい風景や建物の絵を発見できるはずです。

 中目黒で開催している「沢野ひとし展」では、沢野さんが使っているジャバラリフィルをお借りして展示している。ジャバラを広げると、並木に鳩サブレーの缶などのイラストが描かれ、その間に「evidence、証拠 証言」「春に富山へ、ホタルイカと白エビ」「冥府=死後の世界」などの意味深な言葉が鉛筆で書き込まれ、さらに中国語の単語に、昭和の歌謡曲のタイトルなども書かれている。その意味するところはさっぱりわからないけれど、なんとなく沢野さんの脳内を覗いているような気がした。

『ジジイの文房具』にもこのジャバラリフィルのように、沢野さんのたくさんの経験と過去の記憶、深い博識、多彩なアイデアと想像力が詰まっていて、読み終わると自然と手元の文房具や手書きへの愛が沸き起こってくる。沢野さんのことを知らなくても、文房具が好きな方は必読の本です。

 また、『ジジイの文房具』のイラストパネルや原画、沢野さんが使っているジャバラリフィルが展示されている「沢野ひとし展」は、4月8日までトラベラーズファクトリー中目黒2階で開催中です。ぜひ。