色褪せた写真と記念硬貨
住む人が誰もいなくなった実家の片付けをしていると、タンスの奥から分厚い表紙の古いアルバムが出てきた。ページをめくると、まだ僕が生まれる前の両親のポートレートから、僕の小学校入学の記念写真など、色褪せた写真が台紙に並んでいる。家族の写真をちゃんとアルバムにまとめていたんだ。僕の両親はそういったことをマメにするタイプではないと思っていたので、正直驚いた。僕は片付けの作業を一旦止めて、感慨深い気持ちに浸りながら何冊かあったアルバムをひと通り眺めた。
その中の1枚の写真に目が留まった。広い石段の前に、じいちゃんとばあちゃん、その間に立っているのは、僕の兄だろうか。隣には、まだ若い父親が生まれたばかりの赤ちゃんを抱いている。状況から考えると、その赤ちゃんはたぶん僕。石段の奥には、太陽の塔の顔が見える。写真は、みんなで大阪万博を訪れたときのものだった。母親が写っていないのは、たぶんこの写真を撮影していたからだろう。
調べてみると、大阪万博が開催されたのは、1970年3月15日から9月13日。服装を見るとみんな半袖だから、撮影したのはたぶん1970年の夏だと思う。1969年の5月に生まれた僕は、ちょうど1歳になったばかりのタイミング。そう考えると、写真の赤ちゃんは僕で間違いないはずだ。
そうか、僕は大阪万博に行ってたんだ。そう思うと、なんとも言えない気持ちになった。このときは、まだ1歳だから写真を見たところで蘇ってくる記憶もいっさいないし、両親から大阪万博のことを聞いたこともなかった。太陽の塔が好きで大阪万博にちょっとした憧れを抱いていたこともあって、実際にそこに自分が立ち会っていたのを知って、軽く感動を覚えた。
大阪万博が開催された1970年。日本は戦後の高度経済成長を成し遂げ、GDPがアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となっていた(ちなみに現在は4位)。公害に環境破壊の兆しがなかったわけではないけど、科学の発展こそが明るい未来に繋がるとまだ無邪気に信じられていた時代でもあった。そんな中で、アポロ12号が持ち帰った月の石に、テレビ電話や電気自動車、リニアモーターカーなどのプロトタイプが展示され、まだ日本になかったファストフードやファミリーレストランが出店。当時の日本人にとっては、世界の中で日本が認められる重要な国になったことを実感できるのとともに、さらなる発展と明るい未来を感じられるイベントだった。
僕の記憶では、僕が中学生になるまで両親は関東地方すら出たことがなかったはずだ。そんな両親が田舎の祖父母と一緒に、さらに1歳の赤ちゃんを連れてわざわざ大阪まで訪れたのも驚きだった。1970年の大阪万博は、それだけ多くの人が訪れたビッグイベントだったことも分かる。
僕にとって、大阪万博と言えば、やっぱり岡本太郎の「太陽の塔」だ。前衛的なのに、古代に建造された大仏や神殿のような重厚さを感じるし、同時にウルトラマンに登場する巨大宇宙生物や、サイケデリックロックのアルバムに出てきそうなカッコよさもある。恐ろしさと優しさ、芸術性と大衆性、伝統と新しさなど、相反する概念を軽く飛び越えて、その意味は分からなくても、とにかくその存在感に圧倒される。当時の一大国家事業でもある万博に際し、体制に迎合しない反骨の人であった岡本太郎に巨大モニュメントの建築を依頼し、こんな破天荒な作品を技術とお金を投じて作り上げたのもすばらしい。
万博記念公園を訪れて、はじめて実際に太陽の塔を見たのは15年くらい前だった(実は初めてじゃなくて2回目だったんだけど)。何もない芝生の広場に、そびえ立つ本物の太陽の塔を見たときには、言葉を失うくらい感動した。そのときは同時に、1970年の大阪万博の会場にあったときのことを想像した。たくさんの人が訪れる中で、丹下健三が設計したテーマ館で屋根をつき破ってそびえ立つ太陽の塔も見てみたいと思っていた。
でも、実は1970年にあの場所に実際に立ち会い、太陽の塔も見ていたのだ。記憶はなくても、写真がそのことを証明している。そう思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
今はあの頃と違って環境問題も深刻になり、科学の進歩に対して無条件に明るい未来を描くのは難しくなっている。さらに、科学的にも経済的にも日本の存在価値は下がっているし、世界はますます混沌としている。日本も世界も、あの頃とは違った形の目指すべき未来を示す必要性が高まっているように思う。だけど、太陽の塔は1970年の頃と変わらず、圧倒的な存在感でそのことを憂うだけでなく、強い眼差しで僕らに語りかけているように思える。
実家の片付けをしているときに、大阪万博のときに作られた記念100円硬貨も見つけた。100円玉より少しだけ大きくて、片面に「日本国」「百円」という文字とともに富士山、その裏には「100YEN」「昭和45年」という文字とともに「EXPO’70」のロゴがデザインされている。この硬貨もあのころと同じタイミングで作られて万博の記憶とともに両親の手に渡り、そして、写真とともに実家のタンスの奥で眠っていたと思うと、僕は嬉しくなって、この記念硬貨をもらうことにした。
55年もの年月を飛び越えて、さらに記憶も何も残っていないのに、両親の記憶とともに色褪せた写真と100円記念硬貨が、リアルにあの場を旅していたことを感じさせてくれる。そんな旅の記憶もあるんだな。
そういえば、大阪万博の記念硬貨が今どれくらいの価値があるのだろうかと思って、ネットで調べてみた。すると、「買取相場は、未使用のもので額面〜150円程度、美品・並品であれば額面での取引が相場です」とあった。つまり100円以上の価値は、ほとんどないとのこと。まあ、思い出はプライスレスだしね、なんて思いながらも、心の隅にちょっとだけあったこざかしい欲望は、あっさりと裏切られた。