2024年2月19日

旅への渇望

 昨年の4月から聴いていたTBSラジオの『深夜特急オン・ザ・ロード』が、1月末で終了した。このラジオ番組によって僕は、沢木耕太郎氏の『深夜特急』の朗読を月曜から金曜まで毎日15分程度、10カ月間聴き続けた。

 『深夜特急』は、当時26歳の沢木氏自身による約1年にわたる香港からロンドンまでの旅を綴った本なので、ほぼ同じ月日をかけて、その旅を追体験したことになる。『深夜特急』は何度か読んだ本ではあったけれど、これほどまで月日をかけて少しずつ読んだことはなかったし、さらにそれを朗読で聴くということも相まって、新鮮な読書体験となった。

 香港での熱狂とともに旅がはじまり、インド、パキスタン、トルコなどを巡ってヨーロッパに入ると、旅は終盤を迎え、寂寥感を抱きながら旅の終わりを探っていく。そして、最後まで聴き終え、旅の終わりを体感すると、ひとつの旅は、まるで人の一生みたいだと思った。当たり前だけど、人は誰もが死を迎えるように、旅もいつか終わる。

 また、インターネットがない1970年代の旅ということで、旅先で出会った人から聞いたり、自分の足で歩くことで情報を得ていく旅のやり方も、あらためて旅の原点を思い出させてくれる気がした。

 2月になり、ラジオの『深夜特急』の旅が終わって感じていた旅の喪失感をまぎわらそうと、沢木氏の新作『天路の旅人』を手に取った。こちらは、第二次大戦末期に、日本軍のスパイとして、中国大陸の奥深くに潜入していった西川一三という実在の人物の旅を綴ったノンフィクション。『深夜特急』は約1年の旅だったけれど、こちらはなんと8年間の旅をまとめている。

 この本での主人公、西川一三はスパイとして、蒙古人のラマ僧に扮して中国の内モンゴルからチベット、インド、ネパールへと旅をする。ただ、スパイといっても実際にやることは、それぞれの土地の交通や文化、生活環境を視察して記録する程度で(それでも当時は貴重な情報だったのかもしれないけど)、未知の土地への純粋な憧れこそ、西川が旅をする一番の動機となっている。

 日本人であることを隠しながら、蒙古人のラマ僧に扮し、モンゴル語やチベット語、ネパール語も習得し、ほとんど徒歩で、断崖絶壁の山を越え、雪の中で野営をし、急流の川を渡り、砂漠を歩く。そして、当時は鎖国状態で日本人がほとんど訪れたことがないチベットに足を踏み入れていく。そんな西川の旅は、『深夜特急』の旅とはまた違った形で感動を与えてくれた。

 旅の途中で、日本の敗戦を知ることになるのだけど、西川はスパイという目的を失っても、日本に帰ろうとせずに旅を続ける。そこからは、旅そのものが目的となり、まるで生きていくことと旅をすることが同義になったように、未知の土地へ向かって移動をすることを続けていく。

 インドを西に向かって旅をするなかで、お金が尽きた彼は、托鉢僧として施しを受けながら旅を続ける。そこで彼は、何も持っていなくても旅を続けられることを知る。彼は、お金や名誉などのすべての欲望から解き放たれて、さらに自由になっていく。

「いまの自分は、綺麗に欲がなくなっている。何をしたいとか、何を得たいとか、何を食べたいとかいったような欲望から解放されている。一日分の食料があれば、どこで寝ようとかまわないと思っている。水の流れに漂っている一枚の葉と同じように、ただ眼の前の道を歩いている」

 終戦から5年後の1950年、西川はインドで逮捕されて日本に強制送還されてしまう。そこで8年におよぶ西川の旅はやっと終わる。

 この本の冒頭で、著者の沢木氏が、インタビューのために西川のもとを訪れたときのことが綴られている。岩手県の盛岡で、業務用化粧品を卸販売する店を営む西川は、元旦以外は1日も休まず働いていると言う。朝、食事を済ませると自転車に乗って、9時までに店に行く。昼はカップラーメンとコンビニのおにぎりを二つ食べ、夕方5時に店を閉めると、いつも同じ居酒屋に寄って酒を2合飲む。そして、7時半に家に帰る。それを元旦以外の364日ルーティンのように繰り返していると言う。僕はそれを読んで、映画『PERFECT DAYS』の主人公、平山の暮らしを思い出した。

 西川は、帰国後に8年間の旅を『秘境西域八年の潜行』という本にまとめると、その旅で体得したチベット語もモンゴル語も活かすことなく、それらと全く関係のない仕事を実直に続け、89歳でこの世を去った。

 死の間近、西川は、家で父の入院のための準備をする娘に向かって「もっといろいろなところに行ってみたかったなあ……」と呟いたそうだ。帰国後は、長年に渡り、分不相応な欲を持たずに慎ましく生きてきた西川が、人生の最後に旅への渇望を訴えたのも、また印象的だった。自分もそう呟いて死んでいくのかな。

 話は変わりますが、今週末、2月23日~26日まで、トラベラーズファクトリー中目黒では、Ko'da Styleとshort finger の受注イベント「Choice」を開催します。ぜひ遊びに来てください!