食べ物の記憶
子どもの頃、缶詰のコンビーフが好きだった。兄弟3人とも好きで、あの台形の缶が食卓におかれると、まずは誰が、缶の側面をくるくる巻き取って開けるかで一悶着。さらにそれを三等分すると、どっちが多いとか少ないとかまた揉める。
「そんなもん、どこがうまいのかね」なんて父親は言うけれど、ホカホカのご飯と一緒にほうばると、程よい塩っ気とともに口の中でほどけるビーフの食感がたまらない。子どものくせに「これだけで、ご飯何杯もいけるよね」なんて言いながら、おかわりをした。
それでも三等分では、あっという間になくってしまう。当時放送していたテレビドラマ「傷だらけの天使」のオープニングで、ショーケンがまるごとコンビーフをかぶりつくシーンがあった。いつか大人になったら、あんな風にひと缶をまるごと全部食べてみたいと憧れた。
それから数年。何故だかわからないけど、いつしか我が家では、コンビーフが食卓に出なくなった。その後、家を出て一人暮らしになり、コンビーフ缶を買うくらいはお金を稼げるようになった頃には、そんな憧れもすっかり忘れていた。
先週、京都に行った際に立ち寄った恵文社一条寺店で、『わたしを空腹にしないほうがいい』という、ちょっと変わったタイトルの本を買った。この本は、歌人でもある、くどうれいんさんが学生時代に書いた食をテーマにしたエッセイ集。みずみずしい言葉で綴られた食にまつわるエピソードに喚起されて、子どもの頃のコンビーフの記憶が蘇ってきたのだ。
東京に帰ると、早速、近所のスーパーマーケットで、ノザキのコンビーフを探した。あ、これこれ。缶詰のコーナに、あのちょっと不気味な牛の絵が描かれた台型の缶を発見。でも手に取ると、心なしかサイズも小さいし、どっしりした缶ではなくお菓子のような軽いパッケージになっていた。
翌朝、コンビーフを食べてみる。プラスチックの外蓋を外すと、ヨーグルトやプリンみたいなペリっと剥がすアルミ箔の蓋がある。あの鍵のような付属パーツで缶の側面をぐりぐり回して開けたことを思うと、ちょっと物足りない。開けた姿もプリンみたいで、これだとショーケンみたいにかぶりつくこともできない。しょうがないから、スプーンですくって食べた。
ああ、懐かしいなあ。そう思いながら、さらにひとくち。塩気もコクもこんなもんだったっけ。期待のハードルが高かったのか、なんとなく肩透かしのような気分になった。結局、プリンを食べるみたいに、ぜんぶスプーンですくって食べ終わったけど、昔の憧れを実現した割には感動は薄かった。
代わりに、レバーやバラ肉で作ったテリーヌをはじめて食べたときに、いたく感動したのを思い出した。コンビーフとテリーヌの食感や味はちょっと似ている。あのとき食べたオカズデザインさんのテリーヌは本当においしかった分、コンビーフの味の記憶まで、かなり高いレベルまでアップグレードされてしまったのかもしれない。
もちろん父親みたいに「そんなもん、どこがうまいのかね」とは思わないし、過大な期待がなければ、好きな味であることは変わらない。今回は、あの頃のようにそのまま食べてみたけど、マヨネーズと和えたり、フライパンで火を通したりしたら、もっとおいしく食べられると思う。
そういえば、子どもの頃、たまに食卓に出る焼き鳥も好きだった。母親が忙しかったりすると、近所の焼き鳥屋で買ってきたものを大皿にのせて出す。これも同じように兄弟で取り合いになって、いつもちょっとした不満を抱いていた。あの頃は大人になったら、焼き鳥だけでお腹いっぱいになるくらい食べてみたい、と思っていたけど、いまだにそれも試していない。
京都の一条寺では、恵文社とあわせて、昼食にラーメンを食べた。このあたりは、学生街ということもあって、ラーメン屋が多い。そのひとつに入り、メニューを見ると2人用のサービスランチがあった。ちょうど2人で入ったので、それにしようかと話しながら、詳しく内容をチェック。すると、それぞれラーメンにライスがついて、2人分として唐揚げ6個がつく。ここはラーメンに加え唐揚げも名物らしい。食べようと思ったけど、さすがに6個は多いと思って、それぞれラーメンを頼み、さらに唐揚げは2人分として半分の3個入りを頼んだ。
僕らより先に入った隣の学生らしきカップルの席に、例のサービスランチが運ばれてくる。ラーメンに加え、お茶碗に山盛りのご飯、さらに唐揚げは握り拳のようなサイズ。あれにしなくて良かったとほっと胸を撫で下ろすと、こちらにもラーメンと唐揚げが運ばれてきた。ラーメンに加え、気を利かせてくれたのか大きな唐揚げが4つお皿にのっている。一緒に食べたAさんは女性ということもあって、唐揚げ1個でギブアップ。おいしかったこともあって、僕は調子にのって3個食べた。
最近、歳をとったせいか満腹感は時間差でやってくる。食べ終わって、歩いているうちにお腹が苦しくなって、ベルトを緩めた。その日は、1日中胸がムカムカした。さらにその夜に行った銭湯で体重を計ると、1キロ以上増。そういえば、この前の健康診断で、脂質が高いから脂っこいものは控えるよう言われたことを思い出した。気をつけないといけないな。もういい歳だし、わたしを満腹にしないほうがいい。