2017年6月12日

Hello again, Charlie Brown

20170612b.jpg
 
視界がほとんどない深い霧の中で少しずつ霧が晴れるようにぼんやり浮かび上がってくる幼少時の記憶。遥か昔に眺めたシーンが断片的にフラッシュバックし、その時の心の動きがおぼろげに浮かんでくる。皆さんにもそんなことってありませんか。
 
古本屋で、スヌーピーが登場する漫画『ピーナッツ』を見つけた時、ふと、母親と2人でそのアニメ映画を見に行った幼い頃の記憶がよみがってきた。どんな内容だったかはまったく覚えていないけど、ひとつのシーンだけが記憶に残っている。クイズ大会のようなイベントに参加しているチャーリー・ブラウンが、最後の最後で問題を間違ってしまい、負けてしまう。しかも、それは犬に関する問題で、スヌーピーの飼い主であるチャーリーにとってラッキーな質問だったのに間違ってしまった。
 
それを見た時に心に沸き起こってきた、孤独や喪失感のいりまじった哀しみの記憶。あの時、どうしてあんなに切ない気持ちになったのだろう。そういえば、映画が終わり帰る時、手持ちのお金が足りなくてタクシーに乗れず、母親と二人で長い距離を歩いて家に帰ったことも思い出した。夏休みの宿題の絵日記でそのことを書いたら、恥ずかしいからそんなこと書かないでよ、と家族で笑ったんだ。そんな、まるで二流のホームドラマで幸せな家庭を演出する時に使われそうなシーンも記憶の底からよみがえってきた。
 
今までもこのことを思い出すことがあったけど、いつも自然と心の引き出しの奥に戻されていた。だけど今回は、なぜか見終わった時に幼いなりに感じた哀しみの意味を突き止めてみたくなり、調べてみようと思った。そこで、グーグルで検索していくつかのサイトを見たら、あっさりそのタイトルが判明。見つけるまでにちょっとした苦労があった方がもっと感動も深かったのだろうけど、いい意味でも悪い意味でもインターネットは便利すぎる。
 
映画のタイトルは、『スヌーピーとチャーリー』。日本の初公開は1972年。それだと3歳なので絵日記を書くには早すぎる。だけど、1976年にも再上映されている。その時は、7歳だから夏休みの絵日記の記憶とも一致する。ウィキによると、記憶のシーンはクイズ大会ではなくて、アメリカではよく開催される英単語のスペリング大会で、最後の問題はスヌーピーの犬種、ビーグルの綴りを答えるというもので、そのスペルを間違えてしまったとのこと。
 
そこまで調べたらもう見ないわけにはいられない。41年ぶりに映画『スヌーピーとチャーリー(原題 A Boy Named Charlie Brown) 』を見た。(一応ここからネタバレありです)
 
チャーリー・ブラウンは、なにをやってもうまくいかない不器用な少年で、映画の前半ではそのダメさがかなりクローズアップされている。女友達のルーシーには、ダメなポイントをスライド写真とともにとくとくと説明されるし、女の子3人からミュージカル風の歌と踊りで「ダメ人間」と連呼される始末。そして、ため息をついて、毎日は苦難の連続だ、なんて呟いている。
 
ちなみに飼い犬のスヌーピーは、チャーリーが失敗したこともそつなくこなしてしまう、器用で要領の良いスーパードッグ。そんなチャーリーが一念発起して学校のスペリング大会に出場すると次々勝ち進み、ついにクラス代表として出場した全校大会で優勝してしまう。その後、みんなの期待を一身に受けて、テレビ放映もされる全国大会に出場。寝る間も惜しんでスペルを覚えたおかげで決勝まで勝ち残るも、最後には負けてしまう。それだけでも十分な気もするけど、テレビで結果を見たルーシーは、「チャーリーなんかに期待した私がバカだったわ」なんて言い放ち、スイッチを消してしまう。本人の気分もまさに敗者で、悲しげなBGMが流れる中で、暗い気持ちで家に帰る。
 
ダメな主人公も最後には栄光を勝ち取るドラえもんなどの日本のアニメ映画とは違って、努力は報われないし、つかの間のヒーロー気分なんて簡単に失って、また哀しみや憂鬱がやってくる。そんなシニカルで厭世的な映画だった。
  
『ピーナッツ』は、新聞の四コマ漫画としてはじまったもので、本来は子供ではなく大人向けに描かれている作品だ。『スヌーピーとチャーリー』は、初期の映画だったこともあって、子供に迎合することなくその世界が原作に忠実に描かれている。日々の憂鬱や叶わない夢、報われない努力に、仲間同士で欠点を傷つけあった記憶。そんな多くの大人たちが持っている痛みや哀しみをアメリカの小さな田舎町の子供だけの世界を通じて、優しく温かな視点で表現している。
 
だから、この漫画にはいっさい大人は登場せずに、子供たちだけの世界として成立している。7歳の子供には、ちょっと厳しすぎる世界だったのかもしれない。今思えば家族の記憶がセットで刻まれていたのも、自分には守っていくれている存在がいることで安心したかったからなのだろう。
 
だけど、大人になってあらためて見てみるとチャーリー・ブラウンが、なんとも愛おしい存在で、不思議にシンパシーが湧いてくる。彼を見ていると、いろいろ辛いこともあるし、大変なこともあるけど、まあ人生ってそんなものだし、がんばろうかなって思えてくる。チャーリーだってがんばってるんだしね。今更ながら、『ピーナッツ』をゆっくり読んでみようと思った。
 
20170612aaa.jpg