どこか遠くへ
「失敗したなあ」
山梨県の国道20号線を自転車で走っていた僕は、車道を走りながらトンネルに入ってしまったことを後悔した。車の邪魔にならないように端に寄り側溝の上を走ると、たまった砂埃が濡れてシャーベット状の雪のように滑りやすくなっている。車がひっきりなしに通り過ぎていく横で、ハンドルを取られないように慎重に自転車を走らせた。
先の方に出口の明かりが見えて少し安心したその瞬間のことだった。落ちていたペットボトルにタイヤが触れるとバランスを失い、そのままスルっとタイヤが滑り自転車が倒れた。
自転車に乗っていて転倒したことは今までも何度かあるけれど、倒れる瞬間は意外と冷静でその時のことも鮮明に覚えている。今回はトンネルの中だったこともあり、まずは後続車に轢かれることを心配した。幸い後続車は倒れた僕をゆっくりとかわして追い越すと、ハザードランプをつけて速度を落とした。運転手は心配そうにこちらの様子を伺っている。
僕はなんとか立ち上がり、体が動くのを確認し、運転手を見ながら軽く手を上げて大丈夫だと伝えた。そして、脱げてしまった靴を探して履くと、自転車を押してトンネルの出口まで歩いた。
トンネルを出ると、自転車を止めて、まずは自転車と体の状態を再度確認した。自転車は問題ない。体もひどい出血や打撲はなく破けてしまったジーパンの下の膝を軽く擦りむいただけだった。ほっとするのと同時に緊張の糸が切れてしまったように、歩く人もいない峠の歩道に両足を投げ出し座り込んだ。ここまで走ってきた疲れのせいなのか、それとも転んだ時の打ち身のせいなのか、じわじわと身体の節々に痛みが湧き上がってきた。
目的地としている今日の宿まであと30キロ。天気予報によると、あと少しで雨が降ってくるらしい。空を見ると薄暗い雲に覆われている。早く出発した方がいいのは分かっているけど、しばらく茫然自失の状態で地べたに座ったまま動けなかった。
どうして僕はこんなところにいるのだろう。ひとり自転車で旅をする時にいつも思い浮かぶフレーズがまたも頭の中に浮かんできた。そもそも目的地としている宿を選んだ理由は、自転車で行けそうな距離にあって、なおかつゴールデンウィーク中にもかかわらず手頃な価格で予約が取れたからで、別にそこに行くための目的があるわけではなかった。ただ長い休みがあると、ふつふつと胸騒ぎがするように、ひとり自転車に乗ってここではないどこか遠くに行きたくなるのだ。
普段たいした運動もしていないし、計画も適当、さらに雨男の気もあるので、実際に行くとたいてい辛い思いをする。いつも、どうしてこんなところに...と思いながらきつい坂を登ったり、激しい雨のなかを自転車を走らせる。だけど月日が経つと、そんなことは忘れてしまい、またふつふつと胸騒ぎが沸き起こってくるのだ。太陽の光がやさしく差し込む新緑の森の中、永遠に続くかのような長くゆるやかな下り坂を自転車で気持ちよく滑降する...。そんな夢みたいなシーンが頭に浮かんできて、何度一文無しになっても懲りないギャンブル依存症のように、また自転車の旅に出てしまう。
しばらく歩道でぐったりと座り込んでいると、近くで掘ってきたのか大きなタケノコを手に持ったおじさんが歩いてきた。そして僕を見つけると笑顔で話しかけてきた。
「バテたかあ、どこから来たんだ?」
「東京です。ちょっと休んでいるんです」
「東京から来たのか。がんばるねえ。この先にコンビニがあるよ」
道端でだらしなく座り込んでいる僕を見て哀れに思ったらしく、コンビニエンスストアへの道を教えてくれた。それはちょうど目的地の方向とも合っていた。まずはコンビニで乾いた喉を潤そう。そんなささやかな楽しみが見つかったことで少しだけ力が湧いてきた。
おじさんが教えてくれた道はグーグルマップが示す方向とは違っていた。だけど「こっちの道なら無駄に急な坂を登る必要がないからね」という言葉に誘われ、おじさんの言う方向に自転車を進めることにした。もうちょっとがんばろう。疲れと痛みでぐったりした身体にムチを打つように立ち上がり、ゆっくりトラベラーズバイクのペダルを漕いだ。