2020年3月16日

檸檬

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そういえば舞台が京都だったのを思い出し、久しぶりに梶井基次郎の『檸檬』を本棚から引っ張り出した。

ざわざわとして心が落ち着かない休日、家でじっとしているのにいたたまれなくなり、バッグにノートと『檸檬』を入れると、自転車に乗って家を出た。目的もなく近所をのんびり走っていたら、ふと古い喫茶店を見つけた。

長年ずっと日差しを浴び続けていることですっかり色あせた緑色のファザードテント。窓に無造作に貼られたメニューは、値段が手書きで修正され、コーヒーにクリームソーダ、焼きそばがあったりする。扉を開けて中に入ると、昔ながらのガラスの灰皿にコーヒーの出がらしが敷かれていた。「好みのお店だな」僕はコーヒーをオーダーし、『檸檬』のページをめくった。
 
「何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったり、がらくたが転がしてあったり、むさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった」
 
この小説を読むのにぴったりの空間だな。思いがけず心地よい喫茶店を見つけたことに嬉しくなった。
 
「私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らない市(マチ)へ行ってしまいたかった。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら--」
 
僕は『檸檬』の主人公に倣い、ここが東京の下町ではなく、異国の遠い旅先だったらと想像した。例えば、ここが香港だったら -- ゲストハウスで遅い時間に目を覚まし、近くの地元の人しかいないような茶餐廳でコーヒーを飲んでいる。裏通りを歩けば、崩れかけたビルの窓からは洗濯物をかけた竿が何本も突き出ている。さらに、赤いランプで照らされた色鮮やかな南国のフルーツがずらりと並ぶ果物屋...。
 
「その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調(アッレグロ)の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面 --的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる」
 
かつてタイのバンコクを旅したとき、マンゴーやライチを買って、ホテルの部屋で夜通し話をしながら食べたことを思い出した。旅先で見る果物はとても魅惑的で、屋台で価格交渉しながら、それらを手に入れる瞬間はとても楽しいし、安っぽいビニール袋に入った果物を持って歩くのも気分が良かった。 
 
「いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。--結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる--それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう」
 
そして、主人公は丸善に入り、棚から色とりどりの本を取り出して重ねると、それを城にみたて、その上に檸檬を置いてみるということを思いつく。
 
「そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」
 
トラベラーズファクトリー京都のために集めた本が積み重なって置かれているオフィスの棚を僕は思い出した。ここ最近、夜になりオフィスに誰もいなくなると、ひとりでなんとなくそれらの本を手にとったり、ただぼんやり眺めたりしていた。僕はそんな時間が好きだった。そうしていると、不思議とざわついた心が落ち着いた。僕は重なった本の上に檸檬が置かれた姿を想像し、トラベラーズノートにそのイメージを描いてみた。
 
『檸檬』の主人公は、積み上げた本の上に置いた檸檬をそのままにして外へ出ていくことにする。檸檬を爆弾だと想像し何食わぬ顔で店を出る。
 
「変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう」
 
トラベラーズファクトリー京都のどこかにも、檸檬を置いてみたいと思った。だけど本物の檸檬ではあんまりなので、絵を描いてどこかに添えてみようと思った。
 
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