ハーモニウムとボイジャー
身内に不幸があって、この2週間ほどバタバタと落ち着かない日々を過ごしていた。何日か会社を休み心穏やかでない時間を過ごし、その合間に会社で仕事をしながら、いつものみんなと話すことで平静を取り戻す。心がふわふわ宙に浮かんでいるようで地に足が着つかない日々が続いた。そんな状態にもかかわらず、テレビや新聞では気持ちが暗くなるニュースが続き、追い討ちをかけるように心を掻き乱す。
幸いちょうどその頃に読んでいた本がとても素晴らしく、一人の時間になると本に向かって、その世界に浸ることで穏やかな気持ちになることができた。読んでいたのは、駒沢敏器氏の『ボイジャーに伝えて』という小説。まず、導入からカート・ヴォネガットの小説『タイタンの妖女』に登場するハーモニウムにまつわる言葉が出てきて、一気に引き込まれた。
ちなみにハーモニウムは、架空の水星の生物だ。『タイタンの妖女』によると、水星で発見されたただひとつの生命体で、洞窟の奥深くに住んでいる。体は小さく半透明で、四つの吸盤で洞窟にくっつき、水晶の杯のように振動することで奏でられる水星の歌を食べて生きている。
ハーモニウムは他の誰かを傷つける手段を持たず、そもそもそんな動機もない。飢え、妬み、野心、不安、怒り、宗教、性欲とは無縁で、温かく穏やかな場所でひっそりと暮らしている。音楽が好きで、美しい模様を作って整列することから、地球人は彼らをハーモニウムと名づけた。
ハーモニウムは微弱なテレパシーを使って、たった二つのメッセージを送受信することができる。ひとつは「I’m here / ぼくはここにいる」。もうひとつは、その応答である「I’m glad you are there / あなたがそこにいてよかった」。このシンプルで温かく美しい二つのメッセージを交換しながら、アクアマリンの光を放ち、洞窟の壁の上で模様を作って並ぶ。
登場人物のひとり、ボアズは、ハーモニウムに魅せられて、地球に帰らずにこの場所に留まることを決意する。複雑で支離滅裂な話が続く『タイタンの妖女』で、心が透き通るような美しさを感じるシーンだ。
『ボイジャーに伝えて』の導入部。レコーディングスタジオで働く恭子は、友人に誘われて行ったライブで、出演バンドのひとつに惹かれる。そのバンドの曲の歌詞「I’m here. I’m glad you are there.」がなぜだか彼女の心に引っかかる。その後、歌詞はハーモニウムのメッセージから引用したことをバンドのヴォーカルの公平によって語られる。さらに、恭子はボイジャー2号、公平はボイジャー1号の打ち上げ日に生まれたことをお互いに知ることで、二人はさらに惹かれ合う。
ボイジャーは、1977年にNASAによって打ち上げられた2機の無人惑星探査機。木星・土星・天王星・海王星を通過し、当時ボイジャーから届いた鮮明な惑星の画像をテレビで見たのを僕も覚えている。2010年代に1号機、2号機ともに太陽系を脱出し、現在も地球から最も遠い飛行距離の記録を更新しながら、旅を続けている。
ボイジャーは、レコードを積載していることでも知られている。「The Sounds of Earth」というタイトルが付けられ、銅版に金メッキが施されていることからゴールドレコードとも呼ばれている。レコードには、当時のアメリカ大統領のメッセージから、世界の55種類の言語によるあいさつ、波や風、動物の鳴き声などの自然音などが収録されている。
「これは小さな、遠い世界からのプレゼントで、われわれの音・科学・画像・音楽・考え・感じ方を表したものです。私たちの死後も、本記録だけは生き延び、皆さんの元に届くことで、皆さんの想像の中に再び私たちがよみがえることができれば幸いです。(カーター大統領)」
レコードにはメッセージの他にも、90分の音楽を収録していて、バッハにモーツァルト、ベートーヴェンから、チャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」に、ルイ・アームストロングの「メランコリー・ブルース」、さらにバリ島のガムラン、セネガルの打楽器、アボリジニの歌、ロシア民謡に日本の尺八など、世界中の音楽を分け隔てなくラインアップしている。カーター大統領が語るように、ゴールデンレコードに収録した音楽もまた、まさに地球から宇宙に向けた美しいメッセージになっている。
太陽系を超えたボイジャーが他の恒星の近くにたどり着くには、さらに何万年もの時を要するそうだ。宇宙の奥深くに向かって果てしない孤独な旅を続けるボイジャーに、この美しいレコードを積むことを決めた当時の人たちに敬意を抱く。
『ボイジャーに伝えて』は、ハーモニウムのメッセージとボイジャーのレコードが重要なモチーフのようになり話が進んでいく。いわゆるラブストーリーであるのだけど、恋愛の機微よりも、二人の興味や仕事、生き方に多くのページが割かれている。音楽、宇宙、自然の音、旅、沖縄、生と死まで話は広がり、静かに想像力を掻き立てながら、同時に心を穏やかにしてくれる美しい小説だった。
今、世界では刺激的で攻撃的なメッセージが溢れているけれど、ハーモニウムやボイジャーのレコードのように、メッセージはシンプルで美しく誠実であるべきだと思う。例えその動機が怒りからきていたとしても、美しい言葉に変換することはできるし、美しく誠実であるときに初めてメッセージに普遍性が生まれる。そんなメッセージこそが、悲しみを癒し、生きる希望となる。トラベラーズノートには、そんなメッセージを書き留めていきたい。