鱒釣り
体調がすぐれない日の会社帰り、ふと久しぶりに中目黒のカウブックスに行こうと思い立ちました。iPhoneで閉店時間を調べると夜9時までやっています。時計を見たら8時を少し過ぎたところ。充分間に合う時間です。
冬のウィークデー、夜8時30分の目黒川沿いは人もまばらでとても静か。寒いなか薄暗い道を歩いていると、お店がまだ開いているのか少し不安になります。ほとんどの店はシャッターが閉まっていて、もう通り過ぎてしまったのかと思い始めた頃、優しく光る牛のロゴを見つけました。ちりひとつない空間に、整然と並べられた古い本。小説、詩集、評論から写真集や漫画まで、ジャンルはさまざまですが、心に優しくあたたかい灯をともしてくれそうな本ばかり。目にとまった本を手にとり、ぱらぱらめっくているだけで、気持ちが落ち着き清々しい気分になってきました。
ふと、数日前にリチャード・ブローティガンの小説「アメリカの鱒釣り」の文庫本をジーパンのポケットに入れたまま洗濯してしまったのを思い出しました。洗濯物は細かい紙くずにまみれ、読みはじめたばかりなのに、本は背をわずかに残してボロボロになってしまいました。実は「アメリカの鱒釣り」は、3年前にも旅先で読みはじめたばかりの時になくしてしまったことがあります。どちらも自分の不注意で大切な本を無駄にしてしまったのですが、まだその本を読むべきタイミングではないんだろうなと、都合良く解釈をしていました。
リチャード・ブローティガンはここのオーナーのフェイバリットな作家のひとり。早速、探してみました。「アメリカの鱒釣り」はありませんでしたが、ブローティガンの作品は数冊棚に並んでいました。そして、ずっと読みたいと思っていた小説「東京モンタナ急行」を見つけました。
奇妙な旅を予感させるコスモポリタンなタイトル、表紙に描かれた颯爽と走るどこか懐かしい黄色い電車のイラスト。手に取ってその中身を想像するだけで、胸が高鳴ってくる、そんな佇まいを持った本でした。しかし、価格を見てすぐ買うのを諦めました。希少な本のようで、定価の何倍もの値段がついていたのです。きっとこの本も今はまだ読むべきタイミングではないのでしょう。
その後、さらに棚を眺めていると「モンタナ急行の乗客」という本を見つけました。こちらはブローティガンの小説ではなく、笠智衆、沢木耕太郎、サム・シェパード、スプリングスティーンらについて書かれた雑誌編集長によるノンフィクション。この本を手に取って、レジへ持って行きました。まったく予期していなかった新しい本との出会いに満足しながら店を出ると、閉店時間を過ぎていたようで、お店の方が店じまいを始めました。
また人通りの少ない寒い夜の道を歩いて駅まで帰りましたが、帰り道では冬の夜の冷たい空気がなんだか心地よく感じました。そして、誰かを温めてあげたくなりました。最後までなくさずに読めたブローティガンの「芝生の復讐」からの引用で締めたいと思います。
"本を棚に返して、彼は書店を去った。
出て行く彼はとても落ち着いているように見えた。
わたしがそこに行ってみると、
床の上に彼の ためらいが落ちているのを発見した。"