2018年11月19日

ノートと向かいあう心

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僕らはノート屋としてノートを作ることを生業としているつもりだけど、実際に手を動かしてノートを作っているわけではない。
 
トラベラーズノートは足すことよりも引くこと、削ぎ落としていくことを大切にしたプロダクトだから、12年前に生まれてから、少しは色が増えたりサイズが増えたりしたけれど、今もそれほど大きな違いはない。それなのに12年たっても、あいかわらず忙しくバタバタやっていて、それでは僕らはいったい何を作っているのだろうと考えてみたらふと、こんなことを思った。
 
ノートと向かいあう時の心持ちとか、ノートに向かわざるを得ないような衝動、ノートと向かいあった時の高揚感......。つまり僕らは、ノートと向かいあう心みたいなものを作りたいのかもしれない。

ノートが大量に並んでいてもノートと向かいあう心がぜんぜん感じられないノート売場がある。ノートと向かいあう心とは、決してノートの使い方とか、ノート術のようなことではない。例えば、ずっと昔に使っていた、色あせてやぶけそうな1冊のノートが懐かしさとともに大切な何かを思い出させてくれることがある。例えば、真新しいノートのページを開くとあらわれる真っ白の紙面が、なんとも言えないワクワクした高揚感を引き起こしてくれることがある。
 
そんな時は、ノートという存在が心を持つ。ノートが鏡のようになって、向かう人の心を写し出すのだ。そうしたら、そこに身を委ね、鏡の奥へと深く沈んでいく方がいい。悲しみも喜びも感動したことも辛かったことも弱さやも否定も肯定もせず、ただ受け入れる。すると、今まで眺めていたノートという存在が、自分を見つめる観察者へと変わる。そこから目をそらさず、ひとり思考の海を漂い真っ白な紙面に向かう。それがノートに向かう心だ。
 
そんな瞬間は、実にあいまいで前触れもなくやってくる。それは異国を旅している時かもしれない。行きつけのカフェでふとお気に入りの曲が流れた瞬間かもしれない。目を閉じた時にふと大切な人の笑顔が頭に浮かんだ瞬間かもしれない。そこに漂う空気、その時の気分や健康状態、そして、ノートの佇まいがぴったりと符合した時に前触れもなくやってくる。エモーショナルな衝動とともに、何か描きたくなって胸が高鳴り、自分の中に新しい何かがはじまっていく予感がふつふつと湧いてくる。
 
そうやって向かい合ったノートの紙面には、ほんとうの自分があらわれてくる。それは文字だったり、絵だったり、切り貼りだったり、汚い殴り書きだったりするかもしれない。だけど、そこであらわれてくるものは、今まですくえそうでこぼれ落ちてしまった、
心の奥底に澱のように沈んでいた、ほんとうの自分が表現されたものだ。
 
そこには言い訳や愚痴もなく、うまく書こうとかかっこつけようなんて邪心もない。ずっと表現したかった、ずっとやりたかった、ずっと言いたかった、そしてずっと聞きたかった自分のほんとうの声だ。 その瞬間があらわれる理由を、方程式のように解き明かそうとしても見つけることはできない。捉えられそうな気がしても、手にした瞬間にはシャボン玉のように消え去ってしまう。
 
でも、ノートと向かいあう心が生まれるための絶対的な数式を見つけることができなくてもその可能性を高める方法は見つけることはできるかもしれない。例えば、淹れたてのコーヒー、心地よい空間、心に響く音楽や本、大切な何かを思い出させてくれるメッセージやデザインや道具、友人や家族と交わした心からの言葉、旅に出ること、旅するように毎日を過ごすこと、使い込んだ愛着のあるペン、いつも手にしているトラベラーズノート...、それらが、突如ノートに向かう心を引き起こす引き金になることがある。
 
僕らは、そんなノートに向かいあう心を作っていきたいと思って新しいプロダクトを作ったり、トラベラーズファクトリーを運営したり、イベントをやったりしているのかもしれない。ノートと向かいあう心が生み出すマジックに心を揺さぶられた経験がある者たちとしては、やっぱりノートの可能性を信じていたい。それは自分も含めたノートに向かうそれぞれの人自身の可能性なのかもしれない。
 
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