退屈な旅
つげ義春氏の『退屈な部屋』という漫画がある。作者本人を思わせる、怠け者気質でそのゆえに寡作で貧乏な漫画家の主人公は、奥さんに内緒で家の近所に自宅とは別にアパートを借りている。そこは、かつて赤線地帯の連れ込み宿だったちょっと変わった作りの3畳ほどの訳あり物件で、賃料は格安のひと月五千円。主人公は小遣いをやりくりして賃料を捻出し、入り口には偽名の表札を掲げて、秘密の場所で過ごす時間を楽しんでいる。奥さんに「ちょっと出かけてくる」と言って、自転車で10分ほどのその部屋へ行く。何もないがらんとした部屋で、何をする訳でもなく、ただ寝っ転がってゴロゴロしたり、本を読んだりして楽しそうに過ごす。そんな主人公の姿に、僕は不思議なシンパシーを感じてしまう。
夏休み。コロナ騒動がなければ、昨年手に入れた2代目のトラベラーズバイクとともに、日本一周自転車旅の続きをしようと思っていた。昨年青森まで着いたので、次は秋田くらいまでは行けるかな、なんて考えていたのだけれど、GOTOキャンペーンで対象外の東京で暮らす僕が、東北を旅するのは憚られるし、今年は大人しく都内で過ごすことにした。だけど夏休みにずっと家にいると、やっぱり旅の虫がくすぶってくる。
そんな時、ふと『退屈な部屋』を思い出した。さすがに秘密のアパートを借りるほどの甲斐性はないので、都内のどこかに宿を借りて一泊することにした。宿は古くて味があって、それでいて快適でできれば和室で布団の部屋がいい。自転車で少し走りたいから、あんまり近すぎない方がいいかな。そんなことを考えながら、荻窪の旅館西郊に宿を決めた。自宅から荻窪までは自転車で2時間弱だけど、コーヒーショップでアイスコーヒーを飲んだり、行きたかった銭湯に立ち寄ったりしながら、猛暑の東京をゆっくり自転車でこいで進み、夕方、宿に着いた。
静かな住宅街を走っていると、まずは宿に隣接している西郊ロッヂングという特徴的な建物が目に入る。交差点に面した建物の角は、ゆるやかなカーブを描き、天井にはドーム状の屋根が見える。色ムラのあるベージュの壁面に右から読ませる西郊ロッヂングの真鍮製の文字看板が時代を感じさせてくれる。自転車を止めて、しばらくその建物を眺めてから脇に抜けると、旅館西郊の入り口があった。料亭のような風格を感じる門の引き戸を開けて、(料亭なんて入ったことはないけど)小さな庭を抜けて玄関に上がると、どこかで見たような懐かしい風景が広がっていた。
受付のためにビロード生地のソファー座ると、テーブルには今日の夕刊とともに陶器の重厚な灰皿が置かれている。今は使われていない暖炉の上には、手の込んだ木彫りの装飾が施された温度計に豚の置物や日本人形に古い扇風機などが並んでいる。チェックインスペースは、ロビーというよりおばあちゃんの家の応接間のような空間だった。
みしみしと音がする階段を登って通された部屋も良かったな。畳部屋には布団がすでに敷かれていて、その横には小さなちゃぶ台と座椅子にカバーのかかった化粧台がある。窓の障子を開けると、外には庭が見えた。冷たいお茶をごくごく飲むと、思わずゔあーっとため息ともつかない声を発して布団に寝転んだ。ひと休みしたら、近くの本屋に立ち寄ってからラーメン屋で夕食。メンマをつまみに普段頼まないビールを飲んで、ラーメンでしめる。宿に帰ると、本を読んだり、ノートに描いたりしようと、いろいろ目論んでいたんだけど、お風呂に入って横になったら、そのまま朝までぐっすり眠ってしまった。
朝起きて宿を出ると、近くの喫茶店でモーニングの朝食。ふと思い立ちネットで調べてみると、コロナ禍の影響で東京のホテルが破格の値段で泊まれることが分かった。明日も休みだし、帰りがてら日本橋あたりでもう一泊しちゃおうかな。そんなことを考えると胸が高鳴ってきた。