健康診断
夜、仕事が一段落し、明日の予定を確認しようとトラベラーズノートを開くと、翌日に健康診断があることをすっかり忘れていたことに気づいた。
健康診断の前日は、20時以降食事ができない。時計をみると19時30分を少し過ぎたところだった。今から帰れば家に着くのは21時を過ぎてしまうし、東京では緊急事態宣言の自粛要請で20時以降は外でご飯を食べることができなくなる。駅前の吉野家にでも寄ってささっと食べて帰ろうと思った。
吉野家に入ると、けっこう混んでいた。みんな僕と同じように慌てて今日の最後の食事にありつこうとしているんだな、そんなことを思い、店内のお客さんにちょっとした親近感を抱きつつ、ひとつだけ空いていた席に座った。
僕がはじめて吉野家の牛丼を食べたのは、小学生の頃だった。近所に吉野家ができると、開店セールでびっくりするような安い値段で牛丼を販売しているということを学校の友人から聞いた。早速小遣いを握りしめて吉野家に行ってみると、オレンジ色の看板が目立つ店の佇まいに発泡スチロールで作られたテイクアウト用の容器、牛丼という食べ物もすべて新鮮に見えて、ワクワクしながら持ち帰った(それまでそんなスタイルは見たことがなかった)。
家で食べてみると、はじめての味に、なんて美味しいんだろうと思ったのを覚えている。だけど親は一口食べると、「これが牛丼かよ」と文句を言いながら明らかに不満そうな顔をした。今思うと、マクドナルドやファミレスなどが登場した時も同じような反応で、食べ物の新しいスタイルであるファストフードを積極的に受け入れる子供と、食べ物のあるべき姿にこだわり抵抗感を示す親の世代とのギャップが生まれた時代でもあった。今では親が感じた抵抗感の理由も理解できるし、ファストフードがもたらす功罪について無関心でいられないとも思っている。ただ、あの頃子供心に吉野家の味に感動したのもまた事実だった。
話は戻るけど吉野家に入るのは久しぶりだった。メニューを眺めると、ねぎラー油牛丼、ねぎ玉牛丼、とろろ牛丼、ねぎ山椒牛丼などなど、牛丼だけでも10種類近くのバリエーションがあり、さらに豚丼、カルビ丼に、カレーライス、各種定食まである。予想外の豊富なラインアップにどれにしようか悩んでいると、「ラストオーダーのお時間です」と店員が店内にいる客に声をかけてまわった。
その声にすっかり慌ててしまい、結局牛丼と卵と味噌汁という、以前と代わり映えのしないメニューをオーダーした。そういえば、普段は24時間営業の吉野家でラストオーダーの声の聞くのも貴重な体験だな、そんなことを思っていると、お客さんが一人店内に入り椅子に座ろうとした。すると店員に「すみません、ラストオーダーはもう終わってしまったんです」と言われてしまい、すごすごと帰って行った。自分はぎりぎりセーフだったことに気づいてあらためてホッとしたのと同時に、彼がその後ちゃんと食事にありつくことができたのか少しだけ気になった。
牛丼をかきこむように食べて吉野家を出ると、20時を少しすぎたところだった。夜の吉野家ではたいていみんなひとりで黙々と食事をしている。これを20時までと区切ることにどんな意味があるのだろう、そんなことを思いながら、小雨が降るなか駅まで歩いた。
いつまでこんな暮らしが続くのかな。映画館や美術館が休業要請となっている中、文具・雑貨店は休業要請対象外ということで、トラベラーズファクトリーは静かに営業している。京都では5月12日から時短での営業を再開したけど土日は月末まで休業になる。6月の計画は予定通りできるのだろうか。成田は休業してもう1年以上になるけど再開のめどはいまだに見えてこない。娘はゴールでウィークでは中止となった歌舞伎の公演が今度は開催するようで喜んでいる。僕は銭湯のサウナが閉鎖になってしまいささやかな楽しみが奪われてしまった気分だ。
7月に台湾で面白そうなイベントがあるのだけどもちろん行くことはできないんだろうな。台湾の居酒屋でニンニクとかパクチーをたっぷり使った料理をつまみに台湾ビールを飲みたいな。牛丼もいいけど魯肉飯も食べたいな。香港は今、どんな状態なんだろう。また美都餐室で焗琲骨飯を食べる日が来るのかな。チェンマイのカオソーイもしばらく食べていないな。かつて旅先で食べた美味しいものが頭の中に浮かんでは消えた。
さて、翌日健康診断へ行くと、前日の牛丼がよくなかったのか、悪玉コレステロール値と脂質が基準よりオーバーしているようで「再検査ですね」と言われた。いや正直に言うと、ここ数年は毎年同じ項目でひっかかっているんだけどね。そういえば食べたいと綴ったアジアのB級グルメは、どれもコレステロール値と脂質は高そうだな。