2022年1月24日

6年分の絵日記

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このブログには、トラベラーズノートのリフィルに描いた絵日記のようなものをいつもアップしているのだけど、そのためのリフィルをちょうど一冊描き終わったので、新しい水彩紙リフィルを開けた。最近は、この絵日記用のリフィルを使い終わると、図書館用分類ラベルに使った期間と通し番号を書いて貼るようにしている(ラベルはトラベラーズファクトリーでも販売中です)。
 
2016年の5月から10月まで使っていたNo.1から今回の2021年8月から1月まで使ったNo.13までボックスに入れて並べると、この6年間の雑誌のバックナンバーが並んでいるみたいで気持ちいい。表紙にはそのときリリースしたコラボステッカーや旅先で手に入れたショップのステッカーが貼ってあったり、スタンプが押してあったりする。当然それらは中に描いたこととリンクしているので雑誌の表紙のようにページをめくる気分を煽ってくれる。
 
このブログは2007年から続けている。その後、2016年からはリフィルに描いた絵日記もアップするようになった。もともと文章を書いたり、絵を描いたりするのが好きだからやっていることではあるのだけど、正直に言えば面倒だなあと思うことだってあるし、書くことが何も思い浮かばないことだってある。それでも、誰に頼まれているわけでもないのに義務感のようなものを感じながら続けているのは、辛いのに走り続ける孤独な長距離ランナーみたいで、どこかにMっ気があるのかもしれない(走るのは好きじゃないからやらないけど)。
 
だけど、ブログを書くために心の奥の暗闇から手探りで言葉をすくいあげていくことで、なんとなく抱いていたもやもやとした感覚が整理されてクリアになることがあるし、無心で絵を描いていると心が穏やかになって研ぎ澄まされていくような気分になる。文章を書いたり、絵を描いたりすることで心が救われたようになったこともある。
 
トラベラーズノートのリフィルに絵日記を描くようになって、良かったと思うのは、そうやって続けてきたことがフィジカルな物体として残っていくことだ。先日、雑誌の編集者の方とお話をしていたらこんなことを言っていた。
 
「どこか旅に行くと、必ずその街の地図を広げて、全体像を把握してから、お店などを巡るようにしているんです」
 
「ああ、分かります。そうじゃないと街を巡った気にならないんですよね」僕は思わず共感してそう答えた。
 
グーグルマップは確実に行きたい場所へと導いてくれるけど、スマートフォンの小さな画面では街のどのあたりにいるのか分かりづらい。だけど紙の地図は、街の全体像を俯瞰しながら、まずは紙の上で行きたい場所への道筋を辿る。そうすると、ならばこっちの道の方が面白そうとか、ついでにここも行こうとか、想像が広がる。どこか1点を目指して歩くのであれば、グーグルマップの方が便利だと思うけれど、街を楽しもうと思えば紙の地図があった方がいい。
 
トラベラーズノートに描いた絵日記も一緒で、まずは、13冊並んだノートを眺めることで、その6年間の歴史みたいなものが実感できる。ブログの文章もこのサイトの中に情報として蓄積されていくのだけど、アーカイブの年月の羅列を画面上で眺めるより目の前に並んだノートの方がより実感を伴って、その時間の経緯を感じさせてくれる。その中から1冊抜き取り、ページをめくりながら、年月を辿ってなんらかの情報にたどり着く。
 
この絵日記は、旅の記録でもあるから、ページをめくりながら、これはニューヨークからロサンゼルスへ移動する飛行機で描いたんだとか、チェンマイのホテルの部屋で描いたとか、旅先の空気感と共に思い返すことができる。これは丁寧に描けているなとか、これはちょっと雑だなあと思いながら、そのときの気分もリアルに思い出すことができる。この感覚は、ガラス面を指でこすりながらスマートフォンの写真を眺めることでは味わえない。手で触ることができるノートや紙面の温かな質感に、筆跡や絵具のにじみなど、アナログならではの濃密で親密な情報がもたらせてくれる感覚だと思う。
 
6年分のノートをあらためて眺めてみると、これだけ続けていながら絵の方がまったく上達していなくて唖然とするけど、それはそれとして、ともすればあっという間に過ぎてしまったような6年間が、いろいろあったけど愛すべき日々だったな、と思うことができた。分かっていたつもりだったけど、トラベラーズノートは続けるほどに価値が深まり、大切な存在になるということにまた気付かされた。
 
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