つげ義春の漫画に出てくるような温泉宿
つげ義春の漫画に出てくるような、昭和40年代頃の古めかしい商人宿や木賃宿、寂れた湯治場にちょっとした憧れを抱く。漫画では、作者自身をモデルにしていると思われる主人公がそんな宿でぞんざいに扱われたり、宿を切り盛りする家族や女中の慎ましい生活に共感したりしながら、鄙びた宿に安らぎを感じる姿を描いている。
もちろん旅をするなら、快適で居心地の良い部屋が用意され、スタッフが気持ちの良い接客で対応してくれるようなホテルに泊まりたいと思うのだけど、それとはまったく違った意味で、古く寂れた宿でしみじみと孤独に漂泊する気分を味わいたいという気持ちもどこかにある。
ゴールデンウィークに自転車で旅した北東北で図らずもそうした宿に泊まることになった。出発前に旅を計画し、今回は青森から日本海に抜け、そこから南下し秋田まで走ることを決めた。まずは新幹線で青森まで行き、そこで一泊して、その翌日は日本海沿岸のどこかで泊まろうと思った。
ところが、3年ぶりの行動制限がないゴールデンウィークということで、青森市内はどこの宿も満室、もしくはびっくりするほどの高値で予約することができず、結局、青森から30キロほど離れた五所川原のビジネスホテルを予約した。さらに自転車での旅は旅程が読みづらいこともあって、普段は最初の一泊しか予約しないのだけど、不安になって、2泊目も予約することにした。
だけど、泊まろうと思った日本海沿岸の港町は、ネットのホテル予約サイトで検索しても、大型で高額の温泉旅館は出てくるけど、ひとりで気軽に泊まれるような宿は見つからない。しょうがないので、ネットに価格はもちろん、写真も口コミもないけれど、電話番号だけが掲載されている旅館に電話をかけてみることにした。そういえば、まだネットがなかった時代は、旅先の公衆電話ボックスで電話帳を見ながら電話をかけて宿を決めていたのを思い出した。
最初に電話した宿は満室で、2件目はもう旅館を辞めてしまったとのことで断られる。コロナの影響で廃業になってしまったのかなと思いながら、3件目に電話すると泊まれるとのこと。値段を聞くと、安くはないけどそれほど高いわけでもない。温泉もあるようなのでそこに決めた。交通手段を聞かれ、五所川原から自転車で行くと伝えると「まあ大変。気をつけて来てくださいね」と人のよさそうなおばあさんが優しく言った。
さて、くたくたになってその宿に着く。外観は漁師町にありそうな小さな古めかしい宿といった佇まい。荷物を自転車から下ろし引き戸を開けると、埃っぽく薄暗い玄関が見えた。宿の人のものだと思われるサンダルだけが無造作に置かれた下駄箱を見ると、自分以外にこの日の旅客はいないようで、ちょっとした不安が頭をよぎった。
「すみません!」と何度か声をあげると少し腰の曲がったおばあさんがゆっくり出て来た。おばあさんはそのまま、ミシミシと音が鳴る廊下を歩き、6畳ほどの和室に案内してくれたけれど、お風呂の場所も食事のことも一切案内してくれないので「お風呂は入れます?」と聞いてみた。
「お風呂はまだ沸かしている途中だけど、それでよければ入れますよ」と言うので、温泉なのに沸かす必要があるのかと思いながらも、夕食前にさっぱりしたかったので、すぐに入ることにした。風呂の場所を教えてもらうと、入り口には手書きで「今、男の人が入っています」と書かれた張り紙が置いてあった。おばあさんは、その紙を手にして「入るときはこれを架けておいてくださいね。裏は女の人になってるから間違えないでね」と説明した。他に誰もいないのにそんな必要があるのかと思ったけど、何も言わなかった。
一度部屋に戻りゆかたに着替えて、お風呂に行こうとすると、部屋にタオルがないことに気づいた。そこで受付に行って「タオルあります?」と言うと「ああ、タオルね。もらったタオルでいい?」と言って、ビニール袋に入った農協のプリント入りのタオルを手渡してくれた。
お風呂場は温泉の泉質のせいなのか、壁は黒ずみ床はヌルヌルしているけれど、味のある佇まい。だけど、湯船にはお湯が少ししかない。沸かしている途中というのは、このことかと思い、僕は湯船の底で寝っ転がりながら、体の半分を辛うじて湯にひたしてお湯がたまるのを待った。そういえば、温泉施設にこんな感じの寝湯というお風呂があったなと思いながら、塗装が不規則に剥がれてまるで前衛的な抽象画のような天井を眺めながら、気持ちよく浸かった。
なかなかお湯がたまらないなと思いながら風呂に浸かっていると、いつまでも僕が出てこないことにしびれを切らしたのか、宿の人らしき男性が来て「ご飯、もう用意できてますよ」と声をかけてきた。「お湯が少ないんですけど」と僕が言うと、湯船を覗き、「あれ、なんで栓が抜けてるんだ。ちょっと待ってね」と言うと、ズボンの裾を上げて風呂に入り、木の棒を湯船の端に突っ込んだ。そして「これでしばらくしたらお湯もたまるから」と言って去っていった。
僕はお湯がたまるまでの間、体を洗うことにした。置いてあった風呂桶のほとんどは、床と同じようにヌルヌルして茶色に汚れていたけれど、その中から比較的汚れが少ないものを選んで使った。置いてあったシャンプーは中身がほとんどなかったから、家でやるように、ボトルにお湯をつぎ足して使った。それでも、たっぷりたまってしっかり肩まで浸ることができた温泉は、塩分多めの泉質で気持ちよかった。
お風呂に入ったら夕食。お風呂上がりでビールでも飲みながら、ご飯を食べようと思い「飲み物は何がありますか」と聞いてみると、「すみません。今飲み物はないもやってないんですよ」とツレない返事。あらためて玄関に置いてあった自動販売機を見ると、電気も付いておらず、サンプルの缶も歯抜けだった。
「近くに買えるところはないんですか?」と聞くと、「ないです」と再びツレない返事。この辺りにコンビニでもないかとスマホで調べてみると、一番近いのが7キロ先。もともと晩酌の習慣があるわけではないので諦めてお茶を飲みながら食べることにした。だけど、夕食は赤身と白身の魚にイカとあわびのお刺身、さざえの壺焼きに、山菜のお浸しなどが付いて、どれも新鮮でとてもおいしくいただいた。
部屋に戻り、布団の上で大の字になって寝転がると、天井の隅に蜘蛛の巣が見えた。予約の電話を入れたとき、少し待たされたのは、部屋が空いているか確認していたのではなく、こんな状況だけど営業をするかどうかの確認だったのかもしれないなと思った。だけど、僕は思いがけず泊まることができたつげ義春の漫画に出てくるような宿をけっこう楽しんでいた。