2023年4月 3日

楽しい思い出

「歳をとったら、きっと独りぼっちであちこち痛く、目が悪くて本も読めなくなっていることだろう。その長い日々が今から心配だ。(中略)ラジオがあれば日々を埋めるにはじゅうぶんなのかもしれない。歳をとった人間というのはラジオを持っているものだと聞いたことがある。また歳をとった人間はラジオに加えて、楽しい思い出も持っているものだと聞いたことがある。体がそれほどつらくないときに楽しい思い出を反芻して、それで慰めを得るのだ。だがそのためには楽しい思い出を持っていなければならない。心配なのは、自分が歳をとったとき、楽しい思い出がどれくらいあるかがわからないことだ」

 リディア・デイヴィス著『サミュエル・ジョンソンが怒っている』に収録されている「楽しい思い出」という短編にこんな文章を見つけた。この本は帯の「小さな黒いノートに記録された実生活の断片」というコピーが書店で目に止まり、手に取った。短編集となっているけれど、収録されている56編の中には、1行しかない短歌のような作品から、独り言のような言葉、日記のような記録まで、物語という形態を大きく外れた作品も多く、まさにいつも持ち歩くノートに記された文章がそのまま本になったような、不思議な短編集だ。

 引用した文章を読んで、思わずはっとした理由のひとつは、今まで想像したことのなかった年老いたときの自分が思い浮かんでしまったから。そういえば僕の父親は、母親が亡くなってからはひとりで暮らしているし、最近は二、三歩歩くたびに立ち止まりゼイゼイと息をして、ちょっと出かけるのも苦しそうだ。旅をするのも難しい。そんな父親を見ていながらも、そうなったときの自分をリアルに想像をしたことがなかったことに気づいた。自分はそうなる前に死んでしまうだろうと思っていたけど、そんな保証はどこにもない。

 そして、もうひとつ思ったのは、トラベラーズノートに日々の記録を綴ることは、「楽しい思い出」を蓄積することでもあるということ。僕は仕事などで必要な記録を綴る場合を除くと、トラベラーズノートに向かいあうときは、意識して好きで楽しいことだけを綴ったり、絵に描いたりするようにしている。このブログもそうだ。もちろん、楽しいことの裏側には、辛いことや不愉快なこと、怒りや悲しみだって多くある。だけど、それよりも最終的には感動したことや、楽しいことにフォーカスし綴るようにしている。

 先日、中目黒のイベントで久しぶりにお会いしたアピオの河野さんのマンスリー絵日記には、月間ダイアリーに小さなマスに、米粒のような小さな文字とともに旅先の風景やおいしそうなものなど、楽しそうなことがぎっしり詰まっていた。さらにweekend booksのイベントに来場してくれた旧知のkazuさんから、その河野さんに影響されて始めたというマンスリー絵日記を見せていただいたのだけど、これもまた愛犬の姿やお酒、食べものなどの絵がぎっしり描かれていて、kazuさんの楽しそうな日々が詰まっていた。

 冒頭に引用した「楽しい思い出」には、上記の文章に続き、独りで机に向かって仕事をしたり、犬と散歩したり、本を読みながらお菓子を食べたりすることは楽しいが、これだけではじゅうぶん楽しい思い出にはならない気がすると綴られている。だけど、マンスリー絵日記のようにトラベラーズノートに毎日描き続ければ、そんなささやかな日々の楽しみも、歳をとってからもいつくしむことができる「楽しい思い出」になりえるような気がする。

 トラベラーズノートは日々の記録や仕事に使うノートとしてもじゅうぶん使えるノートだと思うけれど、楽しいことを記録することこそ(もっと言うと旅はもちろん、日々の暮らしから、楽しいことを見つけ出して、それを楽しい思い出へと変換してくれることこそ)、トラベラーズノートの他にはない魅力だと僕は思っている。そんな楽しさを共有できるから、他の方の使っているトラベラーズノートを見せていただくのは楽しいし、見せてくれる方もどこか嬉しそうなんだと思う。

 話はちょっと変わりますが、ちょうど3月末で「みんなの投稿」の最後の締切が終わりました。最後ということで、ずっと気になっていた方がはじめて投稿してくれたり、しばらく投稿してなかった方がひさしぶりに投稿してくれたり、いつもより多くのメールが僕らのもとに届きました。メールには、作品とは別に「みんなの投稿」やトラベラーズノートへの想いや感謝の言葉を綴ってくれる方も多く、目を通しながら、思わず笑顔になったり、目頭が熱くなることも多くありました。投稿いただい方をはじめ、これまでこのサイトにお付き合いいただいたすべての方々に感謝いたします。

 みなさんから届いた投稿もまた、そのほとんどがそれぞれにとっての楽しい思い出となるような作品ばかり。もちろん、旅先での失敗や怖かった経験などを綴ってくれることもあるけど、それもまた最終的に楽しい思い出になっている。「みんなの投稿」は、「楽しい思い出」の共有の場であるがゆえに、親密で温かなトーンになっているのだとあらためて思った。

 たまに、どんな選定基準で投稿をアップしているか聞かれることがありますが、正直なことを言えば、「おひとり様月1作品に絞る」、「本物のトラベラーズノートではない、コピー商品は掲載しない」、「他者のトラベラーズノートの使い方や作品を冷笑したり、否定するような表現は掲載しない」という3点のみを基準とし、それ以外はすべて掲載してきました。

 最初の「月1作品」についてはアップ数のバランスをとるためで、「コピー商品」については、公式サイトなのでご理解いただきたいところ。「他者のトラベラーズノート…」はほとんどないのですが、ごくまれに自分の好みやこだわりを伝えようとして、他者の「楽しみ」を否定する表現を含む投稿がある。少なくともここでは、それはなししようと考えた。

 それらを除けば、みなさんから届いた作品の優劣を判断することなんて僕らにはできないし、上手いとか下手みたいな世間一般の判断基準を超えたところに感動があると思っているので、基本的には届いた作品は、すべてアップしてきました。そして、そのことが結果的に、「みんなの投稿」が楽しい思い出に満ちた親密で温かなトラベラーズノート専用のSNSのようなサイトになったのは、まさに投稿していただいた方々のおかげだと思います。

 最後の投稿については、これからアップに向けての作業を進めていきますので、少々お待ちください。そして、ぜひ楽しみにしてください。

河野さんのマンスリー絵日記

kazuさんのマンスリー絵日記