2023年6月12日

サムイ島での思い出

 最近、TBSラジオで『深夜特急』の朗読番組が放送されていて、よく聴いている。『深夜特急』と言えば、沢木耕太郎氏による香港からロンドンまでの自身の旅を綴った紀行小説の名作で、僕も何度も読み返すくらい好きな作品なんだけど、ラジオの朗読として聴くと本で読むのとはまた違った味わいがある。

 平日の夜に30分番組として放送されていて、実際の朗読は1日に15分程度。それをラジコで通勤途中に聴いている。毎日少しずつ読み進めるそのペースは、先を急がない深夜特急の旅にちょうどよく馴染むし、かみしめるようにゆっくり音読する斎藤工氏の声も心地よい。

 朗読の旅は香港からタイに移り、バンコクから電車でスラタニーを経由しながら南へくだり、現在、マレーシア国境に近いハジャイに着いたところ。毎日がお祭りのような香港や、カジノに熱狂したマカオに比べて、主人公はバンコクにそれほど深く心が動かされないまま電車で南にくだっていく。ハジャイではいきがかり上、それまで避けてきたリゾート風の少し値が張るホテルに泊まることになり、そこで日本人夫妻と出会い夕食を共にする。そんなシーンの朗読を聴きながら、僕は学生時代に訪れたタイのサムイ島のことを思い出した。

 大学3年の春休みに初めての海外旅行としてインドを旅して、すっかりバックパックの旅に魅せられた僕は、夏休みになると待ちかねたように一人タイへと旅立った。街を歩けば、物乞いからホテルやタクシーの客引きに両替商、怪しいものを売り込もうとする人が次々と近寄り話しかけられ、さらに牛が歩き、インド映画音楽が大音量で流れ、スパイスやお香に牛の糞の混ざった臭いが漂うインドと比べると、バンコクは刺激が少なく、僕も最初はちょっとした肩透かしを食らったみたい気分になったのを覚えている(もちろんその後、タイの面白さを知ることになるのだけど)。

 その旅でいくつかあった行きたい場所のひとつがサムイ島だった。サムイ島に行こうと思ったのは、蔵前仁一氏の本を読んだのがきっかけだった。蔵前氏は、当時まだそれほど多くなかったバックパッカーの旅を綴った本を何冊か出版していて、バックパッカーたちの貴重な情報源になっていた。その本には、サムイ島は何もないところで(今では高級リゾートホテルが建ち並ぶ観光地になっているみたいだけど)、そこで毎日なにもせずただ砂浜で海を見ながら過ごした日々のことが書かれていた。

 帰国日を決めない旅の途中で、蔵前氏はサムイ島に着く。最初は海辺で本を読んだり、海で遊んだりして過ごすのだけど、一週間も過ごすと手持ち無沙汰で飽きてきた。それを他の旅人に話すと「1ヶ月は過ごさないとここの良さは分からない」と言われ、もう少し滞在することにした。するとだんだんゆっくり流れる時間が心地よくなり、一日中何もせずに、ただ昔の記憶に思いを巡らせたり、美しい夕日を見ることができただけで今日はいい1日だったと思えてくる。日本の忙しい生活で身についた生産的な何かをしないといけない、という切迫感もなくなり、何もしないそこでの暮らしが馴染んできたそうだ。そんな日々を何ヶ月か過ごすうちに、このまま居続けると抜け出せなくなりそうだと思い、彼はサムイ島を発つこと決めた。

 記憶だけで書いているので正確性は疑わしいけど、だいたいこんな内容の文章を読んで、僕もサムイ島に行ってみたいと思ったのだ(インターネットがなかった当時は、人に聞いたり、本で読んだりして得た薄い情報を頼りに、想像力を膨らませて旅先を決めていた)。

 サムイ島へ行くには、まずはバンコクのフワランポーン駅から夜行寝台列車に乗ってスラタニー駅へ行く。ぎゅうぎゅう詰めで苦行のようだったインドの寝台列車に比べると、人も少なくゆったり寝ることができたタイの寝台はまるで天国みたいだった。

 朝、スラタニー駅に着くと、バスで船乗り場に行き、そこからサムイ島に向かう。船乗り場で船を待っていると、日本人の女性二人組に出会った。同じくサムイ島に行くという二人は、学生だった僕の一回りくらい年上で、仕事の休みでタイを旅しているとのことだった。

 サムイ島に着くと、お互いどこに泊まるか決めていなかったこともあり、いきがかり上、同じゲストハウスに泊まることになった。そこは砂浜に小さな掘立小屋のようなバンガローが点在する一泊500円程度の宿だった。早速僕は部屋の前に広がる砂浜に出ると、近寄ってきた物売りからハンモックを買って、バンガローの隣にある木にくくりつけて寝っ転がった。

 夜になると、女性二人と一緒にご飯を食べることになった。ちょうど就職先が決まったばかりだった僕は、二人から「そこで何をしたいの?」と聞かれ、ぼんやりとやってみたい仕事のことを語った。彼女たちは小さな広告代理店でデザイナーをしているとのことで「でも、やっぱり大手じゃないとやりたいことなんでできないのよね」と、僕のほのかな夢を軽くいなすように言った。お酒が進むについて、まるで先輩から説教を受けるみたいに話は進んでいったけれど、まだ学生だった僕にとっては、もうすぐそこに加わることになるはずの社会人の世界が垣間見れたようで楽しかった。

 旅先で旅人同士が出会うと必ず話題に上がるのは、やっぱり旅のこと。僕はインドの旅を話し、彼女たちはこれまで夏休みに二人で訪れたというアジアの国々のことを話した。そんな話の中で、「きみだったらきっと好きだと思うよ」と教えてくれたのが、沢木耕太郎の『深夜特急』だった。当時はまだ未完で、ペルシャまでの旅が書かれた第2便までしか出版されておらず、「もうすぐ3巻目が出て、それで完結するみたい」と付け加えてくれた。

 翌日彼女たちは、さらに南のハジャイまで行くと言って宿を発った。僕は蔵前氏が言う境地を少しでもいいから味わいたいと、もう少しサムイ島で過ごすことにした。だけど、オートバイを借りて島を巡った後は、他にやることもないし、寂しくなってきて、結局2泊だけして、またバンコクに戻ることにした。

 その後、日本に戻ると早速『深夜特急』を買って読んでみた。香港から始まる旅の世界にすっかりはまってしまい、一気に読んだ。その影響で、学生時代最後の長期の休みになると、香港を訪れた。『深夜特急』にならって、ガイドブックも持たずに重慶大厦に向かい、客引きに導かれるままにそこの安宿に泊まった。

 それから長い月日が過ぎて、香港とタイには仕事で何度も訪れるようになったから、あの日にサムイ島で語ったほのかな夢も、少しは実現したと言えるのかもしれない。あのときの二人は僕より一回り上だから、もう仕事も引退して思う存分旅をしているのだろうか。仮に旅に出ていなかったとしても、きっと僕と同じように『深夜特急』のラジオ放送を聞いているのかもしれないな。