2024年1月29日

東京のラーメン

 子どもの頃、我が家では、日曜の夕食はてんやものを頼むのが決まりになっていた。頼むのは、近所にある蕎麦屋か中華屋。そばよりラーメンが好きだった僕は、注文する店が中華屋に決まるとちょっと嬉しかった。僕はたいていラーメンかチャーハン、たまに気分を変えて中華丼を頼んだけど、一番多かったのは、やっぱりラーメンだった。ラーメンは特に変わったところのない、ごくごく普通の東京の醤油ラーメンだった。

 ちなみに父親はいつもタンメンを頼んだ。そして、食べるたびに「ここのタンメンは、なんでこんなにしょっぱいんだ」と文句言った。そのくせ、いつも結局タンメンを頼むので、僕は心の中でだったら違うのを頼めばいいのにと思っていた。僕は僕で、醤油ラーメンに不満があったわけではないと思うのだけど、特別おいしかったという記憶もない。

 高校時代、お昼は親に昼食代として毎日もらっていた500円を握りしめて、いつも友人と学校の近くの蕎麦屋に通っていた。そこは蕎麦屋なのにラーメンがメニューにあって、僕はいつもそれを頼んでいた。それは、いかにも蕎麦屋のラーメンといった感じで、シンプルでさっぱりした醤油味。典型的な東京ラーメンだった。ただこのラーメンがおいしいからここに通っていたというよりも、学校の近くに500円以内で食べることができる店は、ここしかなかったから通っていたというのが正直なところだった。

 あの頃の僕にとって、ラーメンはそういう食べ物だった。何か特別な期待をしたり、心が躍るようなものではなく、淡々と食べる、なんてことのない食べ物だった。今では、東京では数多くのラーメン屋が立ち並び、それぞれ特徴を出しながら切磋琢磨し、ある店では長い行列ができて、ある店は潰れるというような厳しい競争のもとにある。だけど当時は、ラーメンは日常にある普通の食べ物で、どこも似たようなもので、わざわざ店を選んで食べるという発想もなかったような気がする。

 あの頃は、塩味とか味噌味は店によってあったりなかったりで、東京では醤油ラーメンが基本。具材はチャーシュー、メンマに、ほうれん草かワカメ、それに最近ではあまりに見ないなるとをのせて、刻んだネギ。どんぶりが出てきても、平然とした顔で湯気を浴び、こしょうをかけたら割り箸をパチンと割って、スープをひとくち飲んでメンをズズっとすする。そういうものだった。

 ラーメンが特別のものになったのはいつ頃だろう。大学生の頃、おいしいラーメン屋を見つけたからと友人に誘われて行ったのは、大学から車で15分ほど走った場所にある八王子のラーメン屋だった。その頃の僕にとってラーメンといえば、学食か西八王子駅近くにある100円ラーメンが定番で、安くお腹を満たすことができる食べ物という位置付けだったから、若干半信半疑でついて行った。

 そのラーメン屋は、周りに何もない街道沿いにあった。カウンターだけの狭い店内にはお客さんのたくさんいて、スタッフもきびきびして活気があった。そして、僕らの目の前に出て来たのは、白い豚骨スープに、どんぶりからはみ出るくらいの大きなチャーシュー、たっぷりの白髪ネギと刻んだトロロがのった、今まで見たこともないラーメンだった。

 見た目のインパクトもすごかったけど、ひとくち食べてみると、今まで食べたことのあるラーメンとはまったく違う。スープはコクがあって、ネギはシャキシャキでチャーシューもやわらかい。僕は思わず感動して、ラーメンの概念が変わったような気がした。それ以来、なんとなく食べる日常の食べ物としてのラーメンだけでなく、あえて食べる特別なラーメンもあることを知った。

 それから就職して仙台に赴任すると、ラーメンの有名店をいくつか先輩から教えてもらった。一人暮らしがはじまったこともあるし、外回りの営業をしていたこともあって、ラーメンを食べる機会も一気に増えた。さらに青森、秋田、岩手などを営業で巡りながら、それぞれの都市にご当地ラーメンと呼ばれるものがあるのを知った。当時はインターネットがなかったから、営業先のお客さんに聞いてみたり、現地の雑誌などをチェックしたりして、ラーメン屋を探して、お気に入りのお店を見つけると、そこに通うのも出張の楽しみになった。

 あれから時代も巡り、今でもラーメンは好きな食べ物だし、誰かにおすすめされたこだわりの有名店に、旅先ではご当地ラーメンをチェックしてわざわざ並んで食べることもある。だけど、いつもそういうラーメンばかりだとなんだか疲れる。最近は、有名店でもない普通の中華屋のなんてこともない醤油ラーメンもいいなと思うようになった。

 店先には「中華料理」とか「ラーメン」と書かれたのれんがかかっていて、床は長年の油が染み込んでちょっと滑りやすい。もちろん、並んでいる人なんていなくて、テーブルのひとつかふたつはいつも空いている。店の前にくすんだガラスケースの中に、箸で麺を持ち上げているラーメンの食品サンプルがあると尚良い。メニューは酢豚とかレバニラ炒め、中華丼とかもあって、決してラーメンだけで勝負もしてない。そもそも勝負をしているという緊張感もない、ゆるい雰囲気に包まれた家族経営の中華屋さん。

 そこで餃子をつまみに、クラフトビールとかではなくて、キリンかアサヒの小瓶の瓶ビールを飲んでから、ラーメンを頼むと、鶏ガラの澄んだ醤油のスープに、すこしちぢれた麺で、チャーシュー、メンマ、ゆでたほうれん草に刻んだネギ、そして、なるとがのっている典型的な東京ラーメンが出てくると嬉しくなる。東京にはそんな店がまだけっこう残っているのが嬉しい。

 東京を巡って、銭湯あがりに中華屋で東京ラーメンを食べるというのも、けっこうおすすめのコースかもしれないな。

 話は変わりますが、今週末の2月3日、トラベラーズファクトリー中目黒でアアルトコーヒーの庄野さんによるカフェイベントを開催します。バレンタインブレンドに、14gのケーキやお菓子、さらにdans la natureのトラベラーズビスケットも登場します。ぜひ。