Our House
ぼんやりテレビを見ていると、アップルのAirPodsのCMで女の子によるギターの弾き語りの歌が耳に入ってきた。聴いたことがある曲だと思うんだけど、思い出せないままCMは終わってしまった。そのまま放置しておくとモヤモヤするので、「AirPods CM」とスマホで検索。するとYouTubeにCMの動画がアップされている。動画を何度か確認するうちに、それがクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(以下CSN&Y)の「Our House/僕達の家」であるのを思い出した。
「Our House」は、CSN&Yのグラハム・ナッシュが当時恋人だったミュージシャンのジョニ・ミッチェルと暮らす家での幸せな様子を歌ったほのぼのとしたラブソング。あらためてオリジナルの「Our House」を聴くと、今は誰も住んでいない自分の実家のことを思い出した。
僕の実家は、墨田区の菊川という町にある。就職して家を出るまでずっとそこで暮らしていた。昔は家の近所には材木屋がたくさんあって、材木置き場が遊び場だった。近所を流れる川は、当時ヘドロが浮いているドブ川で、そこには材木屋の丸太が何本も浮かんでいたのを覚えている。
菊川は材木屋以外にはこれといった特徴もない下町で、最寄駅の錦糸町までは歩いて30分近くかかった。その後小学校の高学年になる頃に、地下鉄の駅ができたけれど、すでに自転車を手に入れていたので、当時は地下鉄をほとんど利用しなかった。
家から自転車で西に向かって隅田川を越えると、秋葉原や神保町に着く。中学生になると、レコードや本を手に入れるために毎週のように自転車で隅田川を越えた。あの頃、僕にとって文化的なものはすべて隅田川の向こう側にあった。
南に向かうと、東京湾にたどり着く。あの頃の湾岸エリアは、まだ今のように整備されておらず、土管や建築資材が転がる空き地がいくつもあった。そんな空き地のひとつの奥に僕のお気に入りの場所があった。金網のフェンスを越えて、背丈の半分くらいまで草が生い茂る中を歩くと、海に面した堤防に出る。堤防に座ると東京湾に浮かぶタンカーの隙間からきれいな夕日を見ることができた。悲しいことがあると、僕はこの誰もいない隠れ家のような場所をひとりで訪れて、覚えたばかりのタバコを吸いながら、ウォークマンで音楽を聴いて、海を眺めていた。そこは、あの頃の僕にとって避難場所のような存在だった。
あれから何十年も経ち、材木屋はすべてマンションに建て替わり、湾岸エリアもすっかり変わってしまった。かつてのお気に入りの場所はどこにあったのかさえも分からない。実家はまだ同じ場所にあるけれど、今は誰も住んでいない。最近まで一人で住んでいた父親は、昨年自転車で転んだのをきっかけに入院して以来すっかり弱ってしまって、数ヶ月前から老人ホームに住まいを移している。
実家のすぐ前にあったパチンコ屋がコロナの影響で潰れ、代わりに小さな映画館ができたのは、2年ほど前のことだった。単館系の新作に、特集を組んでマニアックな旧作を流すような映画館で、最初にそのことを知ったときには、あの何もない町にそんな文化的な施設ができたのかと感慨深くなった。
昨年、トラベラーズタイムズの原稿を書く際に2回目の『PERFECT DAYS』を観たのもこの映画館だった。地元を舞台にした映画だから、地元の映画館で観たいと思ったのだ。さらに墨田区民は地元割料金で観ることができるのも嬉しい(僕の家は実家から自転車で15分ほどの同じ墨田区内にある)。この映画館は「Stranger」という名前なんだけど、地元のイメージにそぐわないオシャレな佇まいに、馴染みの場所にあるのにStranger(よそ者)になったような不思議な感覚に陥った。
年末の休み、ふと思い立ちこの映画館に行くことにした。例年正月には、実家に兄弟みんなが集まっていたんだけど、今年はそれが老人ホームになる。そこで、休み中に実家の近くに行ってみようと思ったのだ。早速「Stranger」のサイトを見てみると、「伝説のロック・ミュージカルコメディ『ゲット・クレイジー』遂に劇場公開!」とある。
『ゲット・クレイジー』は、1983年にアメリカで公開された映画で、「ルー・リードがボブ・ディランのパロディー役を快演」とか、「日本劇場未公開で一部の熱狂的なファンからカルト的に愛されてきた」などと説明されている。まったく知らなかったけど、この映画を観ることにした。
映画は、1982年の大晦日、ロックの殿堂サターン劇場で行われる年越しロックコンサートでの一夜を、フィクションとして描いている。劇場の乗っ取りを企む悪人と劇場のオーナーとのドタバタに、安っぽいラブコメ的な展開など、いかにもB級コメディ映画といった感じの前半を観ているときは、正直失敗したかなと思ったんだけど、ライブが始まると一気に気分があがった。
B.B.キング風のブルースの大御所みたいなバンドから始まり、Go-Go’s風のガールズバンドが続き、そのゲストとして登場したイギー・ポップみたいなハードコアパンクのボーカリストが暴れまくる。さらにロック界の頂点に君臨し続ける超大物として登場したアーティストは、当時のミック・ジャガーを思わせるステップで歌う。そして、グレイトフルデッド風のヒッピーバンドの演奏にあわせて、出演者みんなで「蛍の光」を歌って年越しを迎えるという、紅白歌合戦みたいな展開になった。最後には、アンコールのようにルー・リードが登場し、エレキギターによる弾き語りで演奏する。ボブ・ディランのパロディーという役どころではあったけど、もう完全に本物のルー・リードの歌と演奏で、満足して映画館を出た。
1982年といえば、僕は中学生で洋楽ロックを真剣に聴き始めた頃。FMラジオで流れるヒット曲を手当たり次第カセットテープに録音して聴いていた。映画に登場するバンドはパロディーなんだけど、どれもリアルにあの時代を感じさせ、音楽的なクオリティも高い。さらに映画館ならではの没入感もあって、まるで1982年の中学生だった頃に戻って、年越しライブに立ち会ったような気分になれた。年末にこの映画を上映する「Stranger」のセンスにも感服した。
ちなみに、この映画館ができる前にあったパチンコ屋は、昔から父親の行きつけだった。父親は、リタイアしてからも数少ない趣味のひとつとしてパチンコ屋通いを続けていた。2年前に家のすぐ前にあるこのパチンコ屋が潰れてからは、隣町のパチンコ屋まで自転車で通うようになる。昨年、自転車で転んだのは、その帰り道だった。もちろんそのことはこの映画館のせいではないし、恨みもない。むしろあの頃の東京湾の夕日が見ていた場所のように、今の僕にとって地元のお気に入りの場所のひとつになっている。
とりとめもなく綴ってしまったけど、いろいろなことが複雑に繋がり、影響しあって今があるんだよね。
Our house is a very, very, very fine house.
With two cats in the yard,
Life used to be so hard,
Now everything is easy 'cause of you.
僕達の家は、とてもとてもとても素敵な家なんだ
庭には二匹の愛猫がいる
生きていくのが辛いときもあったけど、
今はすべてが心地いいんだ きみがいるからね
「Our House」を作ったグラハム・ナッシュとジョニ・ミッチェルとの恋愛は長く続かなかったようで、その後破局する。ジョニ・ミッチェルは、恋多き女性としても知られ、同じバントであるCSN&Yのデヴィッド・クロスビーとも付き合っていた。そのとき、新しい恋人ができて別れたくなったジョニは、その気持ちを曲にして、友人達が集まる場で本人を目の前に演奏するという残酷な方法で別れを告げたそうだ。そんなことを知ってから、あらためて「Our House」を聴くと、また感慨深い。
心に響く音|Apple|AirPods Pro 2
Crosby, Stills, Nash, & Young - Our House (Official Video)