温泉妄想トリップ
先週、打ち合わせで温泉の話になった。温泉は成分によって効能が微妙に異なるので、それぞれの効能を意識して温泉を探して入ってみると、より楽しめるとのこと。確かに僕も、温泉は好きだけど、具体的な効能を意識して入ることはない。お話を聞いて、今度温泉に入るときには、そのあたりを事前にチェックして、意識してみるのもおもしろそうだなと思った。
そんなこと考えていると温泉に行きたくなってきた。秋になって、なんとなく心にはセンチメンタルな気分が漂っているし、日々の悩みに疲れもたまってきている。ひとり、どこか遠くの温泉宿に行って、二、三日のんびり過ごせたら最高なんだろうな。ふと『つげ義春の温泉』を手に取って、パラパラとめくりながらこんな妄想をしてみた。
宿は、街から離れた山の奥にひっそりと佇む、ぽつんと一軒だけあるようなところ。決して豪華でなくて、むしろ、つげ義春の漫画に出てくるような少し寂れた宿がいい。宿に着くと、お婆さんが「よぐ来たなあ」なんて地元の言葉で迎えてくれる。
部屋は畳が敷かれた和室で、テーブルにはお湯が入ったポットに、湯飲み、急須、茶菓子がお盆に載せられている。テレビはなくていい。部屋の隅にすでに布団が三つ折りで置かれていて、あとは勝手にやってね、という感じでいい。荷物を置くと、まずは窓を開けて、木々の香りとともに漂う涼しい風を浴びる。そして、思いっきり深呼吸をする。
ミシミシと音が鳴る古い木の階段を降りて、簡素な引き戸を引くと、温泉がある。小さな浴場にはコンクリートの湯船があって、床や壁には硫黄がこびりついて白とグレーの不思議な模様がある。さらにその奥には小さな露天風呂があって、周囲に人の気配がまったくないから、湯船を囲う塀もない。体は温かいお湯に浸かり、首から上は山のひんやりした空気を浴びる。しばらくお湯に温まると、ほてった体を冷やすために、湯船の横でごろりと横になる。静寂の中で聞こえてくるのは、源泉掛け流しのお湯が流れる音に、うっすらと聞こえる鳥や虫の鳴き声。そして、気持ちのいい風が流れてくると、ザザーと木々の葉が擦れ合う音が聞こえる。
お風呂から上がったら夕食だ。炊き立てのおいしいお米に、おかずは地鶏と大根の煮物に山菜のおひたし、地元の漬物、それにメインには馬刺しなんて感じがいいかな。そこに小瓶のビールがつけられたら言うことはない。食後は、本を読んで過ごし、夜が深まった時間にもう一度温泉に入る。灯りは、小さな裸電球だけの薄暗い露天風呂に入り、夜空を見上げると満天の星。お湯に浸かっては、お湯から出て寝っ転がるのを何度か繰り返し、ゆっくり時間をかけてお風呂を楽しむと、いつもより早めに布団に入り、眠りにつく。
翌朝は、まだ薄暗いうちに目を覚まし、まずは温泉に浸かって、日の出を眺める。すっかり陽がのぼり、日差しが強くなる頃に、お風呂を出る。
朝ごはんは、塩ジャケかアジの開きに卵焼き、お新香なんかが並ぶ、昔ながらの日本の朝食がいい。旅先だと、ついご飯をおかわりしてしまうんだよね。ご飯を食べたら、一度宿を出る。山を歩いて下り、町に出る。感じのいい喫茶店を見つけたら、長居を決めて、コーヒーを飲みながら書きかけの原稿を書く……。
30年くらい前に、僕は仙台に住んでいたことがある。あの頃はバイクに乗ってよく東北をツーリングしていたので、ここに書いたみたいな温泉宿に泊まったことも何度かある。あの頃はネットもないし、外国人観光客も少なかったから、気軽にふらりと行っても、歴史を感じさせる趣のある温泉宿に泊まることができた。今は難しいんだろうな。
最近の自転車日本一周の旅では、趣は別にして、思う存分侘しさを味わえる宿に泊まることもある。例えば、廊下がミシミシ鳴ったり、部屋が粗末だったり、トイレが和式だったりすると、なぜか「うん、こういう感じだよな」とワクワクしてしまう。そして、来るまでは名前も知らなかったようなこの町で、社会と繋がりを持たないまま粗末な宿で暮らしている自分を想像してしまう。
もちろん、そんな暮らしを本当にしたいわけではないし、できる自信もまったくない。ただ、現実感もなく孤独な放浪者になったような気分に浸って、悦に浸っているだけなんだと思う。
『つげ義春の温泉』で、つげ義春氏は、寂れた宿に泊まることで、誰にも承認も束縛もされない解放された気分になることで深い安らぎを覚えた、と綴っている。それは所詮は一時的な慰めにすぎないとも語っているけれど、そんな慰めを日々の暮らしの中で味わいながら、なんとかやり過ごしていることも多い。
温泉の泉質が良くて、小さくてもいいから露天風呂がある。家から2時間くらいで行けて、値段も高くない。適度に古くて寂れて、適度に過ごしやすい。ご飯は豪華でなくていいけれど、旬の素材で丁寧に作られている。さらに他の客も少なくて、思い立ったときに泊まることができる。常連になっても宿の人は程よい距離感を保ちながら、接してくれる。そんな温泉宿があったら、定期的に通いたいんだけど、なかなかないよね。